瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(199)

黒田清『そやけど大阪』(2)
 私は高校時代の3年間を兵庫県で過ごし、大阪にも年に何度か出たけれども、ほぼ梅田の周辺で用事を済ませて、それ以外の場所に行って見たことがない。たまに都会に出る高校生には大阪は何だか複雑で、寄席や映画を見るような小遣いも持っていないし、山岳用品店を見て、大型書店で国土地理院の地形図を買って、そんな用件を済ませてしまえば長居は無用なのであった。道頓堀・難波や四天王寺に行ったのも博士課程の院生時代で、交通網が良く分からないのでキタからミナミまで往復歩いた。東京と違って起伏もないし道路は縦横十文字に走って南北の移動は迷いようがなく距離も大したことではない。しかしその後、そこからさらに足を延ばす機会を得ぬまま、上方落語ばかり聞いていた癖に、舞台となった場所を殆ど踏んだことがないままである。だから死ぬまでに1度、2年くらい上方に住んで、そこらを歩き回って見たいと思っているのだけれども、現実は後何回出掛けられるか、と云ったところであろう。
 だから田辺聖子の生れ育った福島も、黒田氏の生れ育った天満にも行ったことがないのである。
 黒田氏は第一章の5節め、20~22頁6行め「ああ天満橋 愛惜の町」に拠れば、20頁3~4行め「‥‥天満橋の北/詰め、淀川に沿って西へ、つまり天神橋の方へ百メートルほど寄った浜筋」の生まれで、16節め、47~49頁7行め「町の匂いを大事にしまひょ」には、48頁9~10行め「‥‥。/私の本籍は、北区信保町一丁目五十七番地だったのに、いつの間にか「天満二丁目六十七番地」/やて。‥‥」とある。「信保町」の読みは13節め、39頁9行め~41頁「造幣局ジャイアンツ」の40頁11行めに「しんぽうちよう」のルビがある。
 そして小学校は第二章の10節め、99頁10行め~101頁「昭和十年代の天満を地図で ”再現” 」に、99頁13~15行め、

 私の卒業した小学校は、造幣局の西に隣り合った滝川小学校である。
 講堂は何本もの太いつっかえ棒で支えられた建物で、校舎も当時すでに古びていたが、明治五/年創立というのが古い先生たちの自慢のようであった。

とある。
 本書は記者時代の思い出を綴った節や、大阪オリンピック構想や平成4年(1992)シーズン、野村克也(1935.6.29生)監督のヤクルトスワローズと優勝争いを繰り広げた中村勝広(1949.6.6~2015.9.23)監督の阪神タイガースなどの時事ネタを扱った節もあるが、空襲で焼け出されるまでの幼少期、焼け出された前後の少年期の回想が多い。一つ所で落ち着いて人格形成の機会を持てなかった私には、羨ましい限りである。
 大都市育ちで、姉たちや同級生、それから近隣で育った同世代の読者からの手紙で、あやふやな記憶に補足訂正が加えられる。時代と場所の空気を共有している人が多数存在していること、そのことがまた黒田氏の大阪愛をさらに深めているようで、これまた、かつての同級生たちにとって短期間だけの存在で、もう忘れられているであろう私には羨ましい限りである。
 それはともかくとして、造幣局は通り抜けのニュースを毎年見るが、大阪の地理に昧い私は所在地(大阪府大阪市北区天満1丁目1番79号)もよく分かっていなかった。大阪市立滝川小学校は大阪府大阪市北区天満1丁目24番15号にあって番地を見ると離れているようだが西隣である。
 さて、黒田氏は小学校在学中に赤マント流言に接しているのだが、そのことを思い出して連載に取り上げることになったのも、滝川小学校の同級生の、同窓会での発言からなのであった。(以下続稿)