瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(279)

五木寛之の赤マント(7)
 10月13日付(278)の続きで、五木寛之『わが人生の歌がたり』第一部『昭和の哀歓』の第一章「はじめて聴いた歌」の7節め、36頁8行め~39頁「 ソウルで聴いた流行歌」の冒頭を見て置こう。36頁8行め~37頁4行め、

 当時のソウルには南大門小学校という名門校があり、父はそこの教師になりました。/大変胸を張って、出世の階段を一段上がったという感じでした。ステーションホテル/という立派なホテルで、戦時中なのに真っ白なテーブルクロスの上で銀のフォークや/ナイフを使って、洋食を食べてお祝いをしたことをいまでも懐かしく思い出します。【36】
 それまで日本人仲間とお付き合いがあま/りなかったのですが、ソウルに来たとたん/に、同僚をはじめたくさんのお客さんたち/が日夜訪れてくるようになった。‥‥


 37頁の1行字数が少ないのは上部に「当時のソウル・南大門1丁目(『昔日の朝鮮(上)』国書刊行会より)」とのキャプションを下に附した写真が掲載されているため。
 ソウルに出て来た時期だが、厳密に云うと「戦時中」ではない。9節め、43頁9行め~45頁「 慶応服と軍服」の冒頭、43頁10行めに「 私たちがソウルへ行ったのは、太平洋戦争開戦二年ほど前でした。‥‥」とある。もちろん五木氏もそんなことは承知しているので、44頁10~11行め、

 開戦二年前とはいっても、すでに日中戦争が始まっていましたから、戦時中にちが/いない。それでも日々の暮らしには穏やかな時間が流れていました。

と云うのだけれども、「日中戦争」を当時戦争扱いしていなかったから「二年」後の「開戦」になるので、少々混乱していると云うべきである。
 とにかく五木氏が京城に移ったのは昭和14年(1939)、小学校に入学する年である。新年度に合わせて京城に移ったのか、それとも一旦、寒村の小学校に入ってから京城の小学校に転校したのか、どうも前者らしく思われる。それから、ソウルで通学した小学校が南大門小学校とする記述が Wikipedia梶山季之」項を始め、幾つかヒットするのだけれども、石川県金沢市の「朗読小屋 浅野川倶楽部」HP(高輪眞知子代表)の「五木 寛之 年譜」には、「昭和15年(1940年) 8歳」条に「京城の御坂小学校に入学し、その後数度の転校を体験する。」とあるのである。尤も、この記述は少しおかしくて、京城に「御坂小学校」と云う小学校はないことと、続く「昭和20年(1945年) 13歳」条に「平壌弟一中学校に入学し、8月に敗戦を迎える。/9月にソ連軍が平壌に進駐し、そこ混乱のさなか、母が死亡。父は虚脱状態に陥っていた。*1」とあるのだが、これでは小学校(国民学校)を5年で卒業したことになってしまうので、どちらがおかしいかと云うと小学校入学年、昭和7年(1932)9月30日生の五木氏が学齢に達するのは昭和14年(1939)のはずで、それなら昭和20年(1945)卒業まで6年間になる。
 梶山季之(1930.1.2~1975.5.11)が五木寛之と同じ小学校の上級生だったと云うのは、梶山季之の年譜類とそれに依拠した研究論文などにも踏襲されている。
 ここでは、梶山氏の助手であった橋本健午(本橋游)のホームページ「こころ」に全文公開されている、橋本健午20世紀の群像① 梶山季之(1997年7月10日 第1刷発行・定価1800円・日本経済評論社・266頁・四六判上製本*2)の255~264頁「<略年譜>」の冒頭部分を、書籍から抜いて置こう。255頁2~6行め、

 最後に季節杜編の年譜(『積乱雲とともに』昭和五十六年五月刊所収)を元に、略歴や作家活動を見てみよ/う。


昭和五年(一九三〇)
 一月二日京城(現・韓国ソウル)に生まれ、当時の南大門小学校、京城中学校に学ぶ。 小学校の後輩に/ 作家の五木寛之氏、中学の同窓に成田豊氏(電通社長)らがいた。*3

とある。季節社は梶山氏のプロダクションで『積乱雲とともに』は梶山氏の追悼文集である。
 そうすると「御坂小学校に入学」は何処から出て来たのか、と云うことになるのだけれども、『昭和の哀歓』には、55~90頁「第二章 戦時下の流行歌」の1節め、56~64頁「 ピョンヤンに流れる軍国歌謡」に、冒頭56頁2~3行め、

 ソウルの南大門小学校という学校の教師だった父は、やがてさらに出世の階段をも/う一歩上がり、当時平壌と呼ばれていたピョンヤン師範学校の教官に転任しました。*4

と、この京城から平壌に移った時期も、どうもはっきり書かれていないのだけれども、昭和16年(1941)に平壌に移動して、ここで「開戦」を迎えているように読める。そして平壌で通った小学校(国民学校)については、56頁13行め「 私はまず船橋里小学校に転入し、しばらくして山手小学校へ転校しました。‥‥」と明示されているのだけれども、京城で通った小学校については、本書では結局明示されないままに終わっているのである。(以下続稿)

*1:「そこ」は原文のママ。

*2:【10月22日追記】シリーズ名と「上製本」が落ちていたのを補った。

*3:ルビ「なんだいもん・けいじょう/」。

*4:ルビ「/へいじよう・し はん」。