瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(208)

武田百合子『ことばの食卓』(1)
 8月4日付「武田百合子『ことばの食卓』(2)」にて、『ことばの食卓』諸本の体裁を確認するために2篇め、「草月」の連載では第1回に当たる「牛乳」を例に取り上げたが、この「牛乳」に赤マントが出て来るのである。しかしながら、色々と問題があるので確認しつつ眺めて置こう。
 ①15頁、牛乳を飲まされるようになった切っ掛けは「やっと歩けるくらいのときに・・・・死にかけてからのことだそうだ」が、そこは伝聞で回想ではない。ここで回想されるのは「小学校へ上ったら、要注意虚弱児童に指定されて、身体検査のたびに学校から手紙を持たされる」ような按配のため「二人の弟」と「お風呂から上ると」温めた「牛乳を飲み干させ」られたと云う体験だが、その役目を「やかましく」務めていた「おばあさん」と、牛乳を温める土鍋をかけた「長火鉢」について。8月3日付「武田百合子『ことばの食卓』(1)」に挙げた4種の収録位置は①17頁1~6行め②18頁3~8行め③18頁3~8行め④176頁12~17行め、改行位置は①「/」②③「|」④「\」で示した。

 引出しのついた側の長火鉢の前は、おばあさんの場所で、引出しのない側が、|父の/坐る\場所だった。長火鉢の前に坐っている母の様子は浮んでこない。病死し|た母の代/りに私た\ちを育ててくれる、この遠縁のおばあさんが、いつも坐ってい|る。つれあい/に早く死に別\れたあと、一人娘も亡くしたおばあさんが、事細かに|繰り返す仕方話/は、娘が生れたとき\と死んだときのことばかりだったから、私は|朧気に、赤ん坊は固/いうんこみたいに生れる\のだ、と考えていた。*1

とあるのだが、これについて武田百合子武田花 編『あの頃 ――単行本未収録エッセイ集』(二〇一七年三月二五日初版発行・定価2800円・中央公論新社・533頁・四六判上製本)511~521頁、鈴木修 編「武田百合子略年譜」を参照した。

あの頃 - 単行本未収録エッセイ集

あの頃 - 単行本未収録エッセイ集

 512頁1~10行め、

一九二五年(大正十四)
九月二十五日、神奈川県横浜市神奈川区栗田谷十二番地にて、鈴木精次、あさのの間に生まれ/る。異母兄姉に豊子、敏子(大正十二年七月二十四日死去)、新太郎。兄に謙次郎。
 
一九二八年(昭和三) 三歳
弟・進誕生。
 
一九三一年(昭和六) 六歳
弟・修誕生。
 
一九三二年(昭和七) 七歳
四月、神奈川県横浜市栗田谷尋常小学校入学。
七月十三日、母・あさの死去。以後、母方の大叔母、樫本みつが母代わりとして一家に入る。


 これによって「おばあさん」が「母方の大叔母」であったことが判明する。この大叔母が鈴木家に来たのは母の歿後、すなわち「小学校に上」る頃では「おばあさん」ではなく母が牛乳を飲ませる役だったはずなのだが「母の様子は浮んでこない」すなわちその記憶はないのである。また「二人の弟」の生年も判明するが、学年の違いを確認するためには年だけではなく年月(日)まで書き入れて欲しい。
 なお④『精選女性随筆集 第五巻 武田百合子』にも269頁に上下2段組の「略年譜  武田百合子」があり、下部右寄りに横組みで「*『武田百合子全作品 7 日日雑記』(中央公論社)、/『文藝別冊 武田百合子』所収の鈴木修氏編の年譜を参考/にさせていただきました。」とあって『あの頃』の「武田百合子略年譜」はここに挙がっている2冊に既に収録されていたらしい。それはともかく④『精選女性随筆集』には「二人の弟」や「大叔母」の記述は略されている。「牛乳」を読むためにはあった方が良いと思うのだが。
 栗田谷小学校は現存しない。Y・Y NET(YOKOHAMA-YUME-NETWORK:横浜市教育情報ネットワーク)の「横浜市立栗田谷中学校」HPの「学校紹介」の「沿革/学校のあゆみ」を見るに、「昭和24年(1949)7月22日」条に「栗田谷小学校校舎に移転」とあって、現在の栗田谷中学校の位置にあった。
 廃校になった経緯は少々ややこしく、Y・Y NET「横浜市立二谷小学校」HPの「学校紹介」の「沿革/学校のあゆみ」を見るに、終戦前後10年ほどについて、

昭和16(1941)年04月  横浜市二谷国民学校と改名
昭和19(1944)年08月  校舎が陸軍病院として使用される
昭和20(1945)年05月  校舎が横浜大空襲で焼失
昭和21(1946)年01月  栗田谷国民学校に統合される
昭和22(1947)年05月  横浜市立栗田谷小学校と改名される
昭和24(1949)年07月  栗田谷小学校が現在地に移り、横浜市立二谷小学校となる
        11月  現在の校章が定められる

とある。横浜市立二谷小学校は東急東横線東白楽駅からよく見える神奈川県立神奈川工業高等学校の南にあって、昭和20年(1945)5月29日の横浜大空襲で焼失して昭和21年(1946)には栗田谷国民学校、すなわち栗田谷小学校に統合されたのだが、栗田谷小学校の校舎が新制中学校に転用されることになったため、空いていた二谷国民小学校の跡地に戻って、名前も二谷小学校と改められたようである。大阪にしてもそうだが、空襲で焼失した学校の移転・統合・改名など複雑である。二谷小学校HPには是非とも、前身の1つである栗田谷小学校についても、その創立から一通り説明して欲しいところである。(以下続稿)

*1:④ルビ「しかたばなし・おぼろげ」。