瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

田口道子『東京青山1940』(12)

・著者の家族と住所(1)
 著者・田口氏は1月21日付(01)に引いた、奥付及びカバー裏表紙折返しにあるように昭和7年(1932)生、2月9日付(09)の最後に確認したようにその早生まれ、昭和6年度生である。
 134頁8~9行め、田口氏の「‥‥父は当時サラリーマン生活をしていたが、曹洞宗の僧籍にあり「道元」の研究家/でもあったので、‥‥」とある*1。56頁3行め「小学校入学の昭和十三年」から、当時の東京市赤坂區青山南町六丁目、現在の東京都港区南青山4丁目21番15号に、44頁6~7行め「いまもある「青南小学校」へ、‥‥戦前、戦時下を通して/六年間通ってい」る。
 日記を付け始めた昭和15年(1940)1月には、57頁5~6行め「まだ二年生で、担任は教師養成学校だった師範学校出身の女性教師だっ/たのが鮮やかに記憶に残っている」と云うのだが、4~5行め「日記には記されていないが」と断っているように、58頁8~9行め「一、二年生のときの担任だったその師範学校出の教師と/まるで相性が悪かったため」か、この人は日記には全く登場しないらしく58頁に、13行め「六、七歳の子どもにでも反抗心の芽生えを感じ」させる存在として回想されるばかりである。
 そして4月からの新年度(昭和15年度)、64頁4行め「三年生になってからの担任は、さばさばした男の先生」で、54頁3~5行め、夏休みまでの日記、「半年分の成果を三年生の夏休みの宿題とともに先生に提出したところ、思いがけずに第一/ページの一月一日に「優秀」の赤いハンコが押されて戻ってきた。」これが「六十年を/経たいまも」日記を「保存している」理由として挙げられている。
 130頁9~10行め、この三年生の「担任の先生は中国戦線から帰還したばかりで、よく授業中の勉強の合間に、自分が/体験した中国の人々の話をして、日本との生活文化のちがいを教えてくれた。」そして「四月二十六日」条を引用している*2が、その本文に130頁12行め「薄井先生」とあって姓が判明する。この先生のことは「十一月八日」条にも見え、137頁10行め~138頁4行め、

 

 先生が、「あき屋(家)はないかなあ」とおっしゃると、小牧さんが「隣があいてゐ(い)/るといったので、「ぢゃあ、東野と二人で聞いて来い。」とおっしゃったので、せっかく聞いて来たがあいていなかった。

 【137】
 掃除当番か何かのときだったのだろう、担任にいわれて,高樹町に住んでいたクラスメート/の家に一緒に行った記憶がある。一足違いでその家は塞がってしまっていたのだったと記憶し/ている。当時中国戦線から帰ったばかりの担任は、結婚することになって新居を探していたら/しい。生徒に問い合わせに行かせるなんて、先生、生徒ともどものんきな時代だった。

と回想されている。日記の引用は1字下げ、前後1行分ずつ空ける。――「小牧さん」が住んでいた赤坂區青山高樹町は、現在の港区南青山6丁目と7丁目にほぼ重なるが、南北が若干狭い。
 ここで、田口氏の旧姓が「東野」であることが判明するのだが、それはともかくとして、田口氏が「掃除当番か何か」と推測しているのは、田口氏の当時の住所が「小牧さん」の近所ではなく、学校からだと反対方向になるからであろう。すなわち、1月23日付(03)の最後に引いた144頁上の写真キャプションにあるように「赤坂区青山南町5丁目84番地」であった。現在の港区南青山4丁目17番の北側、青山脳病院の裏手の浅い谷間に当たる。
 さて、この写真には女児4人の「姉妹」が写っているが、120頁5~6行め「男の/兄妹のいない私たち姉妹」とあるように女ばかりで、138頁6~7行め、田口氏が小学校に「入/学するというとき」に、6行め「上の姉が小学校を卒業し」ている。田口氏は昭和6年度生だから長姉は6学年上の大正14年度生である。そして180頁13行め~181頁3行め「昭和十九年三月に」青南「小学校を卒業し。六本木の交差点から【180】現在喫茶店になっている「アマンド」脇の芋洗坂を下り、当時の地名「日ヶ窪」にあった「東京都立第三高等女学校」(戦後駒場に移転し「都立駒場高等学校」になった。旧第三高等女学校/の位置は現在「港区立六本木中学校」)に入学し」ているが、8行め「その年、小学校三年生の妹」が、9行め「八月頃に「学童疎開」し」て「京王線「仙川」に女学校の校舎跡」に移っている。すなわち、妹は田口氏よりは4学年下、昭和10年度生で昭和17年(1942)4月に青南小学校に入学している。
 そして187頁11行め「年の近かった下の姉」は、188頁11行めに「私よりも二歳半年上」とあって、2学年上の昭和4年度生、昭和4年(1929)生であることが分かる。すなわち、186頁8行め「昭和十九年」の恐らく夏には、四女は「八歳」*3、187頁4行め、長女と次女の「十九歳と十五歳の二人の姉」*4そして三女の田口氏が満12歳だったことになる。両親の年齢については手懸りになるような記載が全くない。(以下続稿)

*1:後述するように田口氏の旧姓は「東野」だが、東野姓の道元研究の書籍・論文は今のところ確認していない。

*2:2月25日追記】2月25日付(23)に見たように「四月二十五日」条、100頁1行めにも見えていた。

*3:小学3年生の誕生日前。昭和10年(1935)秋から昭和11年(1936)3月までの生れ。

*4:2人とも夏までに誕生日、だとすれば長女は大正14年(1925)生、次女は昭和4年(1929)生。