瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

津留宏『一少女の成長』(5)

 昨日の続きで第一章「一事例研究の試み」の「●3/登喜子の輪郭」から、資料提供者についての情報を抜いて置こう。
 この節は、冒頭、25頁3~4行め、

 私は登喜子の成長史をたどる前に、一応彼女の経歴、家庭状況、身体発育、学業成績等の全体/的概観を述べておく方がよいと思う。‥‥

として、①経歴(25頁11行め~27頁1行め)②家庭環境(27頁2行め~30頁6行め)③身体発育(30頁7行め~34頁7行め)④学業成績その他(34頁8行め~38頁)について纏めている。
 ここには「①経歴」の全文を抜いて置こう。

 さて、まず彼女の経歴からみよう。
 登喜子は昭和四年七月十三日、東京都中野区に生まれた。当時父は四十九歳、母は三十八歳/で、第三番目の女児であった。同胞は三歳上の姉と二歳上の姉のほか、登喜子が満一年十一か月/【25】の時生まれた弟の四人である。
 昭和十一年四月、六歳九か月で中野区某小学校に入学、姉二人も同じ小学校の四年、三年に在/学中だった。
 昭和十二年六月、二年生の時、杉並区へ転宅。学校も杉並区の某小学校に姉たちとともに転入/学した。ここで三年から卒業まで加納という三十歳ぐらいの女の先生に担任された。
 昭和十六年三月、小学校を優等で卒業。四月、東京都立G高女に入学。姉二人も同校の四年、/三年に在学していた。
 昭和十九年八月、三年生の時、学徒勤労動員で立川のN航空機会社に出動、身体虚弱のため事/務室勤務にされた。
 昭和二十年四月、上の姉と二人、愛知県に疎開。五月、同県立K高女四年に転入学。同年七/月、帰宅。再びG高女四年に編入された。
 同年九月、睡眠剤で自殺をはかって未遂。約十日の後、再び登校。
 同年十二月、一家を挙げて熊本県の片田舎に移住。
 昭和二十一年一月、熊本県立I高女四年転入学。同年三月卒業。同年五月、某官立女子専門学/校国文科の入学試験に合格。
 この成長史研究はここまでしか取り扱っていない。こうした無味乾燥な客観的経歴だけでは、/個人の性格はほとんど出てこないことを私自身痛感する。しかしこの間の心理的プロセスを明ら/【26】かにするのが、これからの仕事である。


 私の方は、いつ、どこで、その体験をしたのかを知りたいのだから、これで十分である。
 ここで第二章及び第三章を参照しつつ、主として学校について、固有名詞を特定して置こう。殆ど伏せていないのと同じだし、75年以上前のことなのだから。
 まづ「中野区某小学校」だが、第二章の「●3/小学二年生」の56頁13行め~57頁13行めに引用される「ゑんそく  (五月十三日綴方作品)」、これは昭和12年(1937)5月12日に、西武鉄道村山線(新宿線)の新井薬師前駅から下井草駅まで電車に乗っている。行き先は妙正寺池らしい。小学校から新井薬師前駅までかなり歩いており、駅の手前の野原で休憩したとの記述から、桃園第二尋常小学校(現・中野区立桃園第二小学校)かと思われる。
 それから「杉並区の某小学校」は、第二章の「●5/小学四年生」の81~84頁8行めに引用される「藤井さんの家へ  (十月六日綴方作品)」から、東京市立杉並第二尋常小学校(現・杉並区立杉並第二小学校)と判断される。すなわち自宅を出て「熊野神社の前」を過ぎて「別所さん」との待合せ場所へ行き「二つ目の橋をすぎ」て「田端神社へ行く」四つ辻に出ている。そうすると熊野神社は、現在の杉並区成田西3丁目9番5号にある尾崎熊野神社で、田端神社は現在の杉並区荻窪1丁目56番10号にある。前者は江戸時代の成宗村字尾崎の鎮守、後者は同じく田端村の鎮守であった。また「杉並区立杉並第二小学校 平成31年度 学校要覧」の「●沿 革」を見るに、その1条めに「明治17.2.23東京府東多摩郡成田尋常小学校として開校(田端、成宗の二ヶ村)」とあるように、当時、この辺りにはこの小学校しかなかった*1
 「東京都立G高女」は、第二章の「●7/小学六年生」の122頁9行め~127頁6行めに引用される、2人の姉と合格発表を見に行く「合格の喜び  (三月十三日綴方作品)」に、新宿駅から遠くないことが綴られているところからしても、昭和20年(1945)4月14日の空襲で焼失するまで現在の新宿区歌舞伎町1丁目にあった東京府立第五高等女学校(現在の東京都立富士高等学校)と分かる。
 「立川のN航空機会社」は立川飛行機株式会社らしい。第三章の「●3/孤独の憂愁」の節に、174頁5~6行め「‥/‥。戦局はいよいよ不利なこの年(昭和十九年)八月の中旬から、登喜子たちは学友とともに東京/郊外のN航空機製作所に勤労動員することとなった。‥‥」とあって、「●4/戦争と女学生」の節に動員先での空襲についても、187頁12行め~188頁9行め、昭和20年「二月十六日」条、188頁10行め~189頁6行め「四月廿四日」条の2日分の日記を引用している。
 「愛知県」の「疎開」先であるが、第三章の「●5/人生への絶望」の節に、192頁13~14行め、

 四月二十八日、登喜子は上の姉とともに、母親に送られて焼跡も痛々しい東京駅を離れる。疎/開先は豊橋からさらに数里離れた旧街道に沿うた一聚落であった。‥‥

とある。15行め「父親の友人である「小父さん」」夫婦の家に寄寓することになるのだが、親戚ではないらしく、27頁4行め「登喜子の父親は兵学校出身の海軍大佐」だったから、その関係であったろうか。到着翌日、193頁6行め~194頁5行め「四月廿九日」条に、193頁12~13行め、

 午後、小父様に連れられて根木神社に参拝。とても高くて感じのよいお宮だ。その後、丘陵/の頂上に登って小父様に説明して頂く。東海道の松並木が綺麗で昔を見るやうな感じがした。

とある「根木神社」が、前出の杉並区の神社と違って仮名らしく、分からないが「豊橋」に近い「東海度の松並木」からして、宝飯郡御油町、赤坂町、長沢村辺りであろう。そうすると編入学した「同県立K高女」は、豊川市国府町にある愛知県国府高等女学校(現在の愛知県立国府高等学校)である。最寄駅は名古屋鉄道豊橋線(現・名古屋本線)の国府駅で、そこから下り名古屋方面に1駅めが本御油駅(現・御油駅)、2駅めが名電赤坂駅、3駅めが名電長沢駅である。電車通学していたのであろう。
 「熊本県立I高女」は、第三章の「●6/向学の心」の節に、223頁4~6行め「‥‥。登喜子も四年三学期か/ら熊本県立I高女に転入学した。この学校は喧嘩では最優秀の学校で、その内容も必ずしも東京/時代のG校に劣らなかったから、愛知県に疎開した時のような悲哀は感じなかったが、‥‥」とあるから、熊本県立第一高等女学校(現・熊本県立第一高等学校)と分かる。
 そして最後「某官立女子専門学校国文科」は、227頁9~10行め「女子の最高官学府の一つ/とされた某官立女子専門学校の国文科」とあり、228頁3~10行め、最後に引用されている日記、昭和21年「五月十五日」条に、8行め「四年経ったら私は女学校の先生になる。」とあるから、これは初版刊行当時、津留氏が教授として勤務していた奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学)であろう。前回見たようにここで津留氏は登喜子を識り、資料の提供を受けることを得たのであった。(以下続稿)
 余談。――私の母方の祖母は明治末に生れた人だけれども、網元の娘で、はっきり聞いたことはないけれども地理的に見て、広島県立呉高等女学校に入学・卒業したはずである。その女学校の憧れの先生が奈良女子高等師範学校出身で、その先生からも成績優秀なので奈良女高師への進学を勧められ、そのつもりで勉強していたのだが、東京の親戚から反対が出て、その親戚の家から通える、良妻賢母教育の実践女子専門学校(実践女子大学)に進学したのである。ところが父親が脳梗塞で寝た切りになって実家が没落、長女の自分だけ東京まで勉強に出させてもらったのに、2人の妹は女学校までしかやってもらえなかった。そのことが祖母の負い目になっていたようだ。
 私は祖母の故郷を訪ねたことがない。一度行って見たいと思っていたのだが、その機会も、もうなさそうだ。ところで、祖母の家の家紋は平家と同じ揚羽蝶で、結婚しても女性はこの家紋を引き継ぐことになっているから、私も女だったからこの家紋を引き継げたのだけれども、残念ながら男なので父方の詰まらない家紋である。いや、紋付を着るような機会があるかどうか。2016年5月24日付「昭和50年代前半の記憶(1)」に述べたように、幼少時私は女児のような恰好をさせられていたのだが、この家紋のことを思うと、女に生まれて置けば良かったと思わないでもないのである。

*1:この他にも、第二章の「●4/小学三年生」の65頁14行め~66頁4行めに引用される日記の昭和13年「五月一日」条に、66頁3~4行め「‥‥。夕/方、松木先生(注、弟のマッサージの医師)と東田町の方へ一時間半さんぽしてきました。‥‥」とある杉並区東田町は旧田端村の東側で、現在は杉並区立東田小学校・東田中学校にその名を止めている。