瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(131)

・杉村顕道の家系(4)
 杉村顕道の父・正謙の回想が『懐旧録』もしくは『杉村正謙懐旧録』の題で、昭和48年(1973)1月に杉村顕道によって刊行されている。国立国会図書館に所蔵されているので見に行こうと思っているが、なかなか国立国会図書館に行く暇がない。1週間居続けても足りないくらい調べ物は溜まっているのだけれども。
・高田可恒 編『山形縣荘内實業家傳』明治四十二年十一月十五日印刷・明治四十二年十一月十九日發行*1・定價四圓五拾錢・實業之荘内社・扉+口絵2+緒言・目次八+三四八頁)
 287人が取り上げられているが、112人め、一二二頁5行め~一二三頁(11行め)に、

杉村正謙君は我が庄内藩士なり父を杉村質/直氏と云ひ元庄内藩大御目付にして君は其/次男なり幼にして異才あり長じて服部氏を/侵す所ありしが故ありて又杉村姓に復し他/藩士と大に異なるものありて天下に鵬翼を/伸ばす可く覇氣の勃々たるものありき
明治九年山形縣警察署に奉職し精勤にして/他の模範たるものありしを以て間も無く山/形縣警察署長に轉じ敏活なる行動の見る可/きもの甚だ多かりき後拔擢されて福島縣西/白河郡長となり郡政に鞅掌して令聞あり次いで福島縣學務課長となり縣教育上其改革し施設するもの甚/だ多し然れど君は啻に地方行政に關するを以て滿足する能はず中央に出でゝ大に爲す所あらんと大藏省/及び警視廳に奉職して活腕縱横なるものありき
而して君は世界の大勢を見て官界の長く游泳す可からずして實業界の寧ろ君に適したるものあるを見明【一二二】治三十二年職を辭して日本陶磁器株式會社東京囘航株式會社等を起し其重役として經營宜しきを得着々/成功の域に進むものありき三十三年獨立を以て戸山腦病院を創立し醫院の選拔は無論のこと親切にして/丁寧嶄然として東京多くの病院中群を拔くものありしを以て來り治を求むるもの甚だ多く常に室狹きを/告ぐるを以て近時堂々たる屋宇を建築し遂に今日の成功を見るに到れり且君は病院の大成功を以て未だ/以て滿足せず其東京早稻田方面に劇場の無きを見て大いに遺憾とし社會を教訓し趣味を高からしむるに/は一日として劇場無かる可からずと奮然劇場早稻田座の新築に從事し事業着々として進捗し今や將に其/成を告げんとす
人と爲り嚴にして密容易に動かざるものあり常に庄内人の貧困に衣食するものを憐れみ其病院使用人の/如きは殆んど庄内人を以て充つるが如し蓋し庄内出身者にして社會に價せらるゝ甚だ少く且我が庄内人/の貧困を救ふものゝ一人として無き今日君の如く大いに救う所あるは實に我が庄内人の徳とする所なり/希くは我庄内人を救ふと同時に益成功されんことを

とある。一二三頁左7行分の余白には草の花のカットが入る。一二二頁5~14行めの字数が少ないのは、上部に紋付の半身肖像写真があるからで、下に小さく「君 謙 正 村 杉   京 東」とキャプション。
 昨日引用した『人事興信録』第一版と照らし合わせるに、正謙は最初、母の実家服部家に入ったが、何らかの事情で兄の新平が廃嫡されたため杉村家を継ぎ、明治9年(1876)二十三歳にして山形県警察署に勤務、署長から福島縣西白河郡長に転じている。
 やはり国立国会図書館デジタルコレクションにて福島縣西白河郡役所 編輯『西白河郡誌』(大正四年十月十五日印刷・大正四年十月二十日發行・非賣品・福島縣西白河郡役所・地図6枚+口絵2葉+序2+凡例等2+目次六+五八五頁)を閲覧するに、第一章 沿革(一~九四頁)概要(一頁2行め~六頁)に、3代めの郡長として、五頁18行めに、

  杉 村 正 謙  〈同十六年十一月二十六日警部より轉任/同十七年十二月二十六日三等屬ニ轉任〉

と見え、丁度13ヶ月間(1883.11.26~1884.12.26)の在任であった。
 この他の勤務先についても誌史類を見れば何らかの記述が見付かるかも知れないが、今、一々点検する余裕がない。
 早稲田座については、早稲田大学大学史編集所 編集『早稲田大学百年史』第四巻(平成四(一九九二)年十二月二十日発行・非売品・早稲田大学・xvi+1192+65頁)第八編 決戦態勢・終戦・戦後復興(1~887頁)第十六章 戦前・戦中・戦後のキャンパス周辺(716~749頁)二 早稲田の学生街(717頁4行め~724頁)、718頁9~12行めに、

‥/‥、この早稲田劇場は、明治以来の小芝居「早稲田座」が改称したもので、その後先代源之助が女定九郎を演じて満/員になったりしたことなどもあったが永続きせず、遂に歌舞伎を断念して浅草歌劇の上演により学苑の学生を惹きつ/けようとする試みも結局成功せず、早稲田キネマと更に名称を改めて映画館に転身したが、最後は軍需工場として終/戦を迎えるの余儀なきに至っている。

とあり、『早稲田大学百年史』には他にも、早稲田座・早稲田劇場について若干の言及がある。
 最後の段落は、叢書東北の声11『杉村顕道怪談全集 彩雨亭鬼談』の杉村顕道の次女・杉村翠の談話「父・顕道を語る」の1節め「東京時代」の437頁下段17行め~438頁上段1行め、

‥‥。二十五室もあ/る大きなお屋敷に、いつも書生さんや食客みたいな/人がたくさんいて、祖母はとても忙しかった。それ/で、子どもたちはみんな鶴岡から連れてきた乳母に【437】それぞれ育てられたそうです。‥‥

と云うのに対応していよう。
 杉村正謙については『懐旧録』閲覧の上で再説することとしよう。(以下続稿)

*1:国立国会図書館蔵本(国立国会図書館デジタルコレクション)は印刷・発行の2行とも手書きで「明治四十月」と年月を訂正(?)しているが、山形県立図書館の蔵書検索が出版年を「190911」としているのに従う。