瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(218)

・朝里樹『日本現代怪異事典』(6)
 昨日の続き。
 単なる変質者(?)出没の噂に過ぎない松ヶ枝小学校の事例を、長くもない事典項目に書き込んだことに、私は朝里氏の主張を感じます。こんな事例を取り上げるくらいなら、加太こうじが『紙芝居昭和史』にかなり具体的に述べている、紙芝居由来説をもっとしっかり取り上げるべきだったと思うのです。《当事者》の発言なのですから、小学校低学年だった三原幸久の回想よりも余程確実なはずです。しかし、これを取り上げていないのは朝倉喬司の批判に従ったからでしょう。しかし実は朝倉喬司の根拠とした『現代民話考』の北川幸比古の回想には学年「小学三年生」と時期「昭和十一年、十二年頃」に矛盾があって、北川氏の生年月日(昭和5年10月10日)からして「小学三年生」は昭和14年度、傍証を求めると昭和14年(1939)2月から3月に掛けて、東京の新聞・雑誌に多々取り上げられ、ラジオ放送もされたとのことですから、若干誤差はありますが学年の方が正しいのです、正確には「小学二年生の三学期」ですが。
 そして加太氏の説ですが「昭和十五年」の「初夏」のこととしていたために、『現代民話考』等との齟齬から朝倉氏に批判され、以後一説扱いを受けて来ました。しかしながら、東京での流言発生に加太氏の云う通り紙芝居が絡んでいるのかどうか、可能性はありますが肯定も否定も出来ないのですけれども、大阪での赤マント流言に関してはその原因として加太氏作の紙芝居『不思議の國』が警察に「任意提出」させられ、紙芝居のおっさんが注意されたことが昭和14年(1939)7月の新聞報道で確認されるのです。すなわち、これも1年記憶違いしているものの、記憶の内容そのものは間違っていないことが証明されました。
 ここで1つ強調して置きたいのは、回想には必ず錯誤がある、と云うことです。私が今日ここに言及して来た回想は全て、どこかしら、明確な記憶違いを犯しております*1。恐ろしく正確に記憶し、誤りなく記述出来るような人もいるかも知れません。しかしまづ、傍証の得られない回想は、飽くまでも「何某氏の30年後の回想に拠ると」との但し書きを付けて利用すべきものなのです。別人の回想に傍証になりそうな記述があっても、三原氏の回想が北川氏の回想の影響を受けていたらしいように、全く相互に影響関係が指摘されない上での一致でないと、やはり安心して信拠出来ません。ですから、当時の新聞・雑誌、或いは日記の記述が重要になって来ます。もちろん新聞・雑誌の記事がどこまでも正確かと云うとそんなことはないので、大袈裟に書いたり曖昧な部分を断定的に書いたり、と云ったこともあったでしょう。「大阪毎日新聞」のように流言の内容を、大阪での赤マント流言ではなく4ヶ月前の「サンデー毎日」に報じられた、東京での赤マント流言に基づいて書いてしまったようなこともあります。口裂け女もそうですが、地域によって時間差があり、内容にも違いが生ずるもので、やはり一々の材料について吟味が必要になるので、要するに話の発生時期や内容の変遷を考証するのは、大変に面倒臭いことなのです。
 いや、それは『事典』に要求すべき事柄ではない、と云う人がいるかも知れません。しかしながら、こう云った点について、諸説の表面的な比較に止まっておりながら、松ヶ枝小学校の事例を、早期の例と位置付けたがっているような、随分、発生時期の決定について前のめりになっていることに危うさを感じざるを得ないのです。同様に、青ゲット殺人事件に多くの行数を割いたこと、これは物集高音『赤きマント』の悪ふざけに惑わされた感が強く、どうにも頂けません。影響関係を認めるには、明治39年(1906)の福井県の事件から、朝里氏は赤マント流言の時期を特定できていませんが三原氏・北川氏の回想にある昭和12年(1937)を想定していたとして、そこまで筋が引けないといけません。通信手段や報道網が未発達であった明治39年当時、東京に詳報がもたらされたかどうか、この点から確認しないといけないでしょう。さらにこれが30年後に突然、流言となって一人歩きを始めるのには、それなりのインパクトが必要です。物集氏がその点をどう説明していたのか、また『赤きマント』を借りて来て確認しないといけませんが、両者を結び付けるのは相当苦しいと云わざるを得ません。
 ネット上で受け容れられているからでしょうか。青ゲット殺人事件は松本清張が「家紋」に小説化し、そして『赤きマント』や『オカルト・クロニクル』にも取り上げられ、かなりの知名度を誇っています。これが「赤マント」と繋がっている、と云う説明は、文句なしに、いえ、論証は抜きにして、興味深いものがあります。一方で、加太氏の紙芝居説は、結果的にかなりの部分が正しかった(そして東京での傍証が得られれば全てが正しかった可能性もある)にも拘わらず、具体的な回想でありながら根拠薄弱な批判のために、一説扱いをされたままになっているのです。
 そして私はどうもそこに、小説家の物集氏、民俗学者の常光氏、『現代民話考』の松谷氏、ルポライターの朝倉氏、そして左翼の評論家・文化史家となった加太氏の、権威順に拠る扱いの差があるように、感じてしまう訳です。(以下続稿)

*1:いや、全て時期の誤りなのだから、回想を自分史のどこに位置付けるのかが、存外私たちには難しいのかも知れません。教訓――自分史を記憶だけに頼って書いてはいけない。必ず当時の教科書・ノート、学校や職場・サークルの配布物を準備すべし。