瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(340)

・先崎昭雄『昭和初期情念史』(2)
 本書では220~244頁「第19章 子どもと戦争責任」で、赤マント流言を取り上げているのだけれども、流言ではなく近所の少年のホラ話と云う扱いになっている。少々長くなるがこの少年の紹介から抜いて置こう。1行分空白があって222頁14行め~223頁16行め、

 私が小学四年生になった昭和一四(一九三九)年四月一日、青年学校というものが義務/制になった。青年学校とは「小学校卒の勤労青年に産業実務教育・普通教育および軍事教/【222】育を施した旧制の学校。一九三五年に実業補習学校と青年訓練所とを統合、全国市町村に/設置。三九年に男子の義務制を実施し、軍事教育を重視。四七年廃止。」(『広辞苑』第四/版)
 当時、一部の尋常*1小学校の上には更に二年制の高等小学校というものがあり、中学に行/かない子どもたちがかよった。その高等小学校も青年学校も、東京では主として職人や職/工の家の子たちが行かされていた。上野桜木町という山ノ手から、「下町の学習院」など/といわれる根岸小学校へ通う私たちには、無縁のものだった。
 だが近所に一人だけ、青年学校に通う年上の子がいた。それは、私の家から七十メート/ル程の所にあった(今でもあるはず)花屋の住み込みの小僧さんで、ノブちゃんといった。/ノブちゃんは、青年学校の、草色がかったカーキ色の制服制帽にゲートル、という姿をと/きどき見せた。ある日などは、その上にゴボウ剣(牛蒡みたいに粗末な陸軍兵士用の剣)/を吊した姿で三八銃まで引っ提げて、なぜか私の家の門柱の陰に潜んで辺りをうかがって*2/いた。青年学校の野外軍事教練で斥候役の最中らしかった。普段は店の暇な合間だけにた/まに私たち年下と寛永寺境内で遊んでは、店の者に呼びもどされるかしてすぐ帰っていく/のだった。だが暗いところのない、穏やかな若者だった。ところがホラ吹きなのが玉に傷/だった。【223】


 そしてそのホラ話として2つ紹介する。1つは224頁1~2行め、

 千葉県の里見城跡の山中に野猿がたくさんいるのを見たという話がいつしか、松戸の山/林にも猿がたくさんいるという話に変わった。‥‥*3

と云うもので、真に受けた先崎氏は松戸まで何度も常磐電車で出掛けている。
 そして2つめが1行分空白があって225頁8行め~226頁2行め、

 さてノブちゃんのことにもどるが、彼はまた〝赤マントを着た吸血鬼〟の話をした。赤/マントの吸血鬼が日比谷公園に出没すると言うのだ。人間の生き血を飲まないと死んでし/まうのだそうだ。夜な夜な公園の茂みの陰で男ではなく女の生き血を吸っているという。/いかにもエログロっぽい話なのだが、それがついにすぐ近くの谷中ノ墓地にまでやって来/ているというところまで話は発展した。
 折しもある日、軍隊が上野公園や谷中ノ墓地の周辺で演習していると、ノブちゃんは、/「あれは実は赤マントを探してるんだ」と言った。私たち年下の悪童連はたちまち本気に/【225】して、軍隊のあとをつけ回した。おかげで騎馬の将校に「危ないぞ、邪魔だよ、ついてく/るな、すぐ帰れ」とおこられた。


 昭和14年(1939)2月下旬に東京では赤マントの流言が広まって「都新聞」などは大きく報道したし、学校では朝礼で注意を与えたり、デマである旨をラジオ放送したり、警察署に周辺の小学校の代表を集めて署長直々に懇談したり、大きな騒ぎとなったのだが、先崎氏は全くそのように扱っていない。ノブちゃんが思い付いて、先崎氏たち「年下の悪童連」に吹き込んで、最初は日比谷公園だったのが谷中霊園になって、ついに将校に叱られて沙汰止みとなったかのような書き振りである。
 そこで思うのは、加太こうじの著書も何冊か参照しているらしい先崎氏が、2013年10月25日付(004)等に抜いた加太こうじ『紙芝居昭和史』の、赤マント流言の発生が谷中墓地近くでの少女暴行殺害事件だとする説を読んでいたら、ここの記述がどうなったか、と云うことである。
 6つ下の弟はともかく、2つ上の姉、2つ下の妹には知っているか訊ねることになったのではないか*4。しかし、先崎氏はノブちゃんとその遊び仲間の間の、ちょっとした騒ぎくらいに思っていたので、それをしなかった。
 226頁14行め~227頁4行め、

‥‥、いつしかノブちゃんの姿も見なくなった。予科練にでも/行ってしまったのだろうか。【226
 さてノブちゃんの吸血鬼の話も、松戸の野生猿の話も、全部ホラに決まっていたが、近/くの上野公園や谷中ノ墓地の周辺には幾人かの乞食が棲みついていて、ノブちゃんの作り/話に負けないぐらいなんとなく不気味で猟奇的な興味を私たち子どもはいだいた。私たち/は乞食諸君の一人一人に渾名をつけていた。(‥‥*5


 ただ、そのことが良かったか悪かったかは分からない。むしろ、記憶しているままを書いたのは良かったように思う。仮令捻じ曲がった記憶にしても、間違った情報に引き摺られて誤るよりかなんぼもマシである。――『紙芝居昭和史』の説明は、2014年7月11日付(139)までに考証した通り、時期を除けばほぼその通りであったらしい。ただ、肝心の時期が誤っていたために小沢信男「わたしの赤マント」は当初、自身の記憶を1年ズラして合理化しようとし、或いは朝倉喬司などに厳しく(しかも誤った根拠によって)批判されもした。小沢氏は幸い、単行本『東京百景』に収録する前にこの誤りに気付いて修正しているのだが、現在でもこの加太氏の1年記憶違いの影響が Wikipedia「赤マント」項などに引き継がれているのである。――そう、先崎氏も『紙芝居昭和史』を見ていたら、昭和15年(1940)1月のこととしてこれを記述し、そしてノブちゃんのホラ話ではなく有名な流言だったのかと気付いて姉や妹にも確かめ、そしてそれらを引っくるめて加太説に時期などの辻褄を無理に合わせて、本書に載せかねなかったのである。
 いや、全くのところ、朝倉氏に代表される加太説に対する批判、或いは加太説を軽視してドグマに陥ってしまった人々のことを思い返すに付け、――間違った情報に引き摺られて、赤マント流言の資料の混乱に拍車を掛け、また本書全体の記述内容にも混乱を来すことになったと云うのは、十分有り得たことなのである。
 私がくどくどと資料の素姓、そして回想している筆者の当時の学年・年齢、回想した時期について細かく考証しているのは、その必要があるからである。それだのにこのような検討を経ずにそのまま使って混乱に拍車を掛けてしまう研究者が少なくないことに、私は毎度、暗鬱な気分にさせられているのである。(以下続稿)
追記】この、昭和14年2月当時小学3年生だった先崎氏の回想が、当時の新聞報道から大きく乖離していることからも、回想の扱いは慎重にしないといけないことがよく理解出来るであろう。かつ、1人の体験を一般化してしまうことの危険性をここで特に強調して置きたい。殊にそれが回想されたものであれば、何処かに記憶違いがあるものと疑って、他の人の回想、そして出来れば同時代資料の探索と云った辺りの徹底的な調査で、傍証を求めるべきなのである。

*1:ルビ「じんじよう」。

*2:ルビ「ご ぼう/つる・さんぱち」。

*3:ルビ「さとみじよう・の ざる/」。

*4:4つ上の兄に関しては、本書執筆時に健在だったのか、本書の記述からでは分からない。

*5:ルビ「/こ じき・す //あだ」。