瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

芥川龍之介旧居跡(19)

 昨日の続き。
・都内の旧居追懐(4)
 家の東側、深夜の侵入者が逃げて行った方には、竹を組んだ垣があって、1人がやっと通れるくらいの隙間があった。その、土を踏み固めた通路を通って家の北側の回ると、コンクリート板を積み上げた塀があって、高さは2m半もあったろうか。この塀と家屋との間は1m半くらいだったろうか。西にはこの通路が見えないように高さ3mはありそうな板塀があって、そこにあるやはり板の扉を出ると、井戸があった。夏でも冷たい。但し、災害時の利用に協力する旨、区に申し出て指定を受けたのだが、そのときの水質検査で微量ながら重金属が検出されたとの結果が出たので、一口も飲まなかった。夏、庭の植木が乾くと、母に言いつかって私が手押しポンプで井戸水を汲んで、ブリキのバケツで庭まで運んで、撒いたものだった。しかし父はそんな面倒なことはしないので、惜しげもなく庭の水道から水道水を撒布していた。
 この井戸の脇に自転車を止めていた。しかし、籠がさびて壊れた跡に、壊れて捨てた洗濯機に附属していた籠を括り付けて乗っていたら何度も職務質問されて、何だか嫌になって来て、結局その自転車が修理不能になった折に、代わりを買うのを止めた。井戸の南側は棕櫚などが生えていたと思う。ところがここに竹が生えて来たのである。母は伐るように言っていたのだが、父が「風情がある」などと言って伐らずにいるうちに、この竹に毛虫が湧いて、井戸に近付けなくなってしまった。近所の人たちにも、何かの折に飛散した毛で被害があったのではないかと思う。
 さて、この家の西側は竹を編んだ垣になっていたと思う。そして、南側は2mほどの大谷石の塀になっていた。表を人が通っても、靴音と話し声が聞こえるばかりで、1階ではもちろん、2階からでも隠れてしまってよく見えなかった。こちらも覗かれる気遣いはない。
 だから、庭は暗かった。古い木が何本も生えていて、その下には落ち葉が散り敷き、日が差さないせいか草も生えないので、静かで暗くてひんやり感じられた。
 南西の応接間の南側は、大谷石の塀まで1m半ほどの幅しかなく、乾いて草も生えなかったのだが、いつしか桑の木が生えてきて、外からも分かるくらいの高さに伸びていた。応接間の東、居間やサンルームの南が、それなりの広さの庭になっていたのである。2mの塀の圧迫感を全く感じないくらいであった*1
 どんな木が植わっていたか、もう忘れてしまったが、立派な樫の木があったように記憶している。とにかく家屋の近くが踏み固められた通路になっていて、その当たりには日が差すので雑草も生えてくるのだが、通路から少し南にずれるともう足を踏み入れるのが憚られるような、静かな植物だけの世界になっていた。実際、そんなに距離がある訳ではないのだが、庭の奥まで踏み入ったことがない。
 しかし、終わりは近付いていた。
 社宅だから、父の退職とともに退去しないといけない。私の一家が退去したら、会社はもう入居者を募集せずに処分する方針である。この家が、静かな庭が、もうじき失われようとしている。しかし、私に何が出来ただろうか?
 そんな折、父が買い取ると言い出した。退職金をはたいても、うちには都内の準高級住宅地の土地家屋を購入するお金なんてないはずである。
 それは、どうも会社からの提案であったらしく、売却するにしてもいろいろと面倒なので、もし希望するなら安く払い下げる、と云うのである。しかし、そうだとしても億単位の金が必要で、父の退職金はとてもでないが億単位にはならない。
 だから、ローンを組むと云う。再就職も口もあって、まだまだ働けるから、しばらく稼いでローンを払う。もちろん、こんな老朽家屋をそのままにして置けないから、近所の家がそうであるように、一部を賃貸にして建て替える。そうすれば、お前(つまり私)は都内で大家さんになれるぞ、と云うのである。
 今からすると、乗っても良かったような気がしないでもない。しかし、そのためには、兄は北海道で就職して帰って来るつもりはないとのことだから、一家3人、1階の何部屋かに住んで、2階をアパートのようにして貸すとして、庭は潰さざるを得ない。家をそのままにして置けないのは、仕方がない。しかし、庭をそのままにして置けないのは堪えられなかった。売却後、新たな持ち主がどうかするのは、仕方がない。しかし、私がこの木々を切り倒すことに加担するのは、日々水を撒き、親しく接して来て、家族のような親しみを覚えているのに、堪え難いことであった。
 それに、当時の私は自他共に認める(?)優秀な院生だけれども、将来金持ちになる見込みは持っていなかった。国文学界は滅ぶと云う予感しかなかった。――現在、センター試験の後継の筆記テストの導入が回避されて首の皮一枚繋がったような按配であるが、疑問なのは現役の高校生の反対活動で覆りそうになっていることで、筆記試験導入の計画を進めた官僚や教育者(この辺りの責任がどうも曖昧なのも気になる)がこんな簡単なことにも気付かず、それから指導的立場にあるはずの国文学の教授たちは気付いていたはずなのに何らの有効な対抗策も取れずに、訳の分からない制度をそのまま実施させかねなかったことが信じられない。いや、もう私は貴方たちには全く期待していないのだけれども。
 そして、2018年11月14日付「美術の思ひ出(3)」の後半、及び8月31日付「杉村顯『信州の口碑と傳説』(10)」の後半に述べた、――長く非常勤講師を務めていた女子高で当初「現代文は担当者によって重点の置き方(解釈)に違いが出るから合わせられない」との理由で、定期考査を授業担当者がそれぞれ作成していたのは、全く正しかった、との思いを新たにした。女子高の定期考査が共通問題にされて、私は急速に輝き(?)を失ったのだけれども、どうも、合わせられると考える方がこのところの全体的な傾向らしく、そして、今年になって、AIに東京大学受験させるとか云う珍プロジェクトで有名になった新井紀子国立情報学研究所教授が、国語記述式問題の採点について愚かな tweet をしたり顔でしているのを見て、これはもうどうしようもないな、と思った。――私たち1人1人、見えているものが違う。同じ教材を使ったところで、同じ授業にはならない。第一、教科指導書に珍解釈が載っている。いや、教科指導書なんてどうでも良いのだ。作品の解釈について、しばしば論争があったことを御存知か。もちろん、その中には言葉遊びに過ぎないような下らない解釈に基づいた不毛な議論もあった訳だけれども、もともと人間の考えることを同じ基準で採点など出来ないのである*2。新井氏はそこが全く分かっていない*3。そして、そこを衝いて文学部の教員が有効な反撃に出なかったらしいことに、いよいよ文学部の滅びを感じた。文学の解釈など、間違っていなければそれで良いのである。だから私は明らかに間違っているところを取り上げて、批判している。しかし、文学部の教員をやっている連中にも、間違いを殊更に取り沙汰するのは(人格に問題ありと思われて就職に差し障るし*4)宜しくない、と考えてか、むしろ間違いなんて気にせずに(敢えて問題にせずに)各々勝手な解釈を謳い上げる方向に進んでしまうような輩が少なくないようである。普段から噛み合った議論をしていない、そんなことだから反論出来ない。そして、文部科学省に見送りを要望した高校生たちよりも無能であることを露呈させてしまった。まぁ文学部の教員が反論しても新井氏のように既得権益、既存のやり方を墨守しようとしている、との図式に流し込まれて矮小化されて、高校生たちのように効果的には展開させられなかった可能性が高いのだけれども。
 話が脇にそれてしまった。
 偉そうなことを言って、私とて文学部の教員、そうはなれなくても大学非常勤講師掛け持ちみたいな生活をしていたら、それだけで手一杯になって何らの行動も出来なかっただろう。いや、やろうとして、そんなことをせずに出世した諸先輩たちにたしなめられて圧殺されていたかも知れない。――とにかく、言葉を扱う学問の癖に噛み合わない議論をして(そもそも噛み合わないものなのだけれども)退潮覆いがたい文学部に関わって、金持ちになる見込みのまるでない私に、父を引き継いで数十年、ローンを払い続けることが出来るだろうか? 土地購入費用だけでなく新築の建築費用も掛かるのだから、月々、かなりの負担になるのである。家賃収入で補うにしても、それだけでは足りない。
 この家、この庭に愛着があるので、この家、この庭でないこの場所に住み続けたいとは思わない。――これが、私の結論であった。(以下続稿)

*1:この大谷石の塀が、下部が少し剥離していたくらいで苔など全く生えずに、切り出した当時のような美しさを保っていたことも、圧迫感や陰鬱な感じを与えないポイントになっていたように思う。

*2:だから、正しい解釈を選択肢の1つだけににしているセンター試験のやり方は全く正しい。別解があっても最初から選択肢にないのだから初めから問題にならない。そしてこの場合でも消去法により正答は求められる。マークシートに問題があると云うよりも、マークシート問題を技術的に解決させるような指導法を編み出した教育業界に問題があったと云うべきだろう。その、教育産業がまた入試を歪めようとしているのである。

*3:話し合って共通認識に到達出来るのなら、世界は既に平和になっている。

*4:実際、院生の頃は先行研究の錯誤を厳しく批判して諸先輩にたしなめられたものだった。今や、当ブログでは割合正直に述べているけれども、仕事上のことでは人と争う気が全くない。