・森川氏の小学校入学
昨日の続き。
森川直司(1927.3.10生)が深川区で過ごしたのは、12月25日付(02)に引いた『裏町の唄』と『昭和下町人情風景』の「まえがき」にあったように、昭和7年(1932)夏の末から昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲までである。
しかしながら、昨日確認した『昭和下町人情風景』Ⅰ 昭 和【7】「記 憶」にあるように、4歳半の昭和6年(1931)に上京している。すなわち、昭和6年夏から昭和7年(1932)夏まで、1年の空白が出来てしまう。
このうち半年分は、1月16日付(16)に見た、「投稿 風便り」op.28「小諸なる古城のほとり」に纏められた転居歴では「昭和六年、一家が大阪から上京して深川に住む前に半年ほど江戸川区の平井に居たから」とあるのだが、実はその前に、1月20日付(20)に見たように数ヶ月を母の郷里、千葉県内房の保田町で過ごしていたのである。
しかし、平井に移ってからのことは、『裏町の唄』及び『昭和下町人情風景』にやや詳しく見えている。
すなわち、『裏町の唄』【1】「入 学」及び『昭和下町人情風景』Ⅱ 下 町【8】「入 学」の冒頭に、前者(改行位置「/」)13頁2~11行め・後者(改行位置「|」)80頁2~11行め、
深川区三好町二丁目十六番地。
昭和七年の秋の始め江戸川区の平井から引越してきて十三年間住みついた借家のあっ|た/場所である。兄は、この時、小学校一年生で、小松川第三小学校から白河町の元加賀小|学/校に転校した。
兄が小松川第三小学校にいたとき学校からチラシをもらってきたが、東京市が十五区|か/ら三十五区(現二十三区)に拡大されたという内容で、旧十五区が真っ赤に、新たに区|と/なった周辺地域がピンク色に塗ってある地図を描いてあった。
このとき小松川第三小学校のあった地区が東京市江戸川区になったのだが、わが家は、/|はじめから赤く塗ってあった旧東京市十五区の中の深川区へ転居した。
翌昭和八年四月、早生まれだったので、兄に続いて元加賀尋常小学校に入学した。*1
平井は東京府南葛飾郡小松川町で、小松川第三小学校は現在の江戸川区立平井小学校(東京都江戸川区平井6丁目35番1号)で、創立当初から同じ場所にある。「江戸川区立 平井小学校」HPの「学校概要 >沿革」に拠ると、大正15年(1926)9月1日に小松川第三尋常小学校として開校、昭和16年(1941)4月1日に小松川第三国民学校と校名変更、昭和20年(1945)3月10日東京大空襲により校舎全焼、平屋建授業、そして昭和22年(1947)4月1日に江戸川区立平井小学校と校名変更、とある。
最寄駅は総武本線平井駅、総武本線は昭和6年(1931)10月1日に両国駅に改称された両国橋駅が長らく起点だったのが、昭和7年(1932)7月1日に御茶ノ水駅まで延伸されたばかりだった。
そして「江東区立元加賀小学校」HPの「学校概要」に拠ると、明治40年(1907)深川区元加賀町15番地(現、江東区三好3丁目5番付近)にて開校、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で焼失、その後、昭和2年(1927)に現在地の深川区東大工町48番地(現、江東区白河4丁目3番19号)に「鉄筋コンクリート造りで、スチーム暖房用の煙突もある」新校舎を建てて移転している。
校舎については森川氏も「入 学」の最後、『裏町の唄』15頁15行め~16頁3行めに、
学校は鉄筋三階建てのコの字型の建物で、下町のわりに広い校庭はアスファルト舗装さ/【15】|れていて、生徒は多いときには二千名を超した。
一年生か二年生のころ「創立二十五周年記念 元加賀尋常小学校」と鋳込んである鉛製/の文鎮を学校からもらった。
『昭和下町人情風景』82頁13~14行めは、「‥‥、生徒は多いときは三千名を超していた。」で終わって、最後の段落が省かれている。
「学校概要」に従えば、25周年は昭和7年(1932)のはずだから、森川氏も文鎮をもらったのだとすれば、作り過ぎて余っていた物なのであろう*2。82頁にはまだ2行分余裕があるから、生徒数について訂正するのと同時に25周年に当たっていないことにも気付いて、この2行は敢えて省略したのであろう。(以下続稿)