瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森川直司『裏町の唄』(2)

12月26日追記】投稿当初「赤いマント(222)」と題していたが、「赤いマント」の記述の検討に入る前に、本の内容を一通り見て置くことにしたので、記事の題を著者名と書名に改めた。

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 昨日の続きで、本書と、その抄録を一部に含む『昭和下町人情風景』とを比較しつつメモして置きます。
 本書の見返し、緑色の遊紙があって、次いで横縞を摺出した白い扉、カバー表紙と同じ墨書の標題と、横長のゴシック体の著者名に明朝体のルビ、著者名とそのルビはカバー表紙よりも大きく見える。『昭和下町人情風景』の見返しは、淡い千草色の遊紙があって、次いでクリーム色の扉、中央上部に淡い緑色の縦罫3本、左ほど長くなる。その間、2行に明朝体で大きく標題、1本めの縦罫の右、上寄りに行書体で小さく「小さきものをいとおしむ」、3本めの左、下寄りに明朝体でやや大きく著者名。最下部中央にゴシック体横組みで「廣済堂」文字は全て緑色。これらの文字はカバー表紙(版元名なし)や背表紙に配置や色が異なるが、入っていた。
 『裏町の唄』1~3頁(頁付なし)「ま え が き」は「昭和五十三年三月」付。書き出しを引用してみましょう。1頁2~6行め、

 深川に私が住んでいたのは、小学校へあがる前の年、昭和七年の夏の末から昭和二十年/の三月までの十三年間だった。
 現住地の練馬に住んでから早や十九年になるから、深川は私の人生で最も長く住んだ土/地ではなくなったが、感受性に富んだ少年時代を過ごしたためか、いまでも私にはいちば/ん長く暮らした土地であるように思えてならない。


 この書き出しは『昭和下町人情風景』1~2頁(頁付なし)「ま え が き」にも踏襲されています。1頁2~8行め、

 私が東京深川の裏町に住んでいたのは、昭和七年の夏から昭和二十年三月の東京大空襲/の時までだった。
 深川を去ってからすでに四十六年経ったが、戦後は閑静な住宅地に住み、住居と職場を/往復するだけで、周辺を歩く機会も少なかったためか、十三年足らずしか住んでいなかっ/たのに、深川が最も長く暮らした土地のように思えてならない。
 五歳から十八歳という多感な時期を下町で過ごし、徳に好奇心が旺盛な小学生時代に、/深川のあちこちを友だちと遊び回っていたから、ことのほか印象が強いのだと思う。


 森川氏の経歴は『昭和下町人情風景』奥付の上部に横組みで、次のように見えています。

森川直司(もりかわ ただし)
昭和2年3月10日、大阪市に生まれる。
昭和7年東京に移り、昭和20年3月10日/の東京大空襲の日まで深川に住む。現住/所は練馬区東大泉×―×―×。
昭和27年、創立と同時に東京穀物商品取/引所に勤務し、現在は専務理事。
昭和48年、長野市活禅寺徹禅無形老師か/ら得度を受ける。法名は秀安。


 すなわち、大正15年度(昭和元年度)生で昭和8年(1933)4月に小学校入学、昭和14年(1939)3月卒業。当ブログで細かく検討した「わたしの赤マント」の作者・小沢信男とは同年の生れですが、森川氏は早生れなので1学年上です。そして、満18歳の誕生日に東京大空襲に遭っています。
 この昭和20年(1945)までの経歴については本書及び『昭和下町人情風景』の本文から窺うことが出来ますので、次に本書と『昭和下町人情風景』の内容及び細目を確認し、細かい内容にも触れて行くこととします。(以下続稿)