瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森川直司『裏町の唄』(21)

・森川氏の幼少期
 1月20日付(20)まで、森川氏が「参禅専門道場 大本山活禅寺」HP内の「風便り」と云うページに「森川秀安」名義で投稿している随想を一通り眺めて、そのままになってしまったが、これにて森川氏の少年期を回想した著書とネットで読める文章を一通り確認出来たことになる。
 材料が揃ったところで、年代順に配列し直して、整理してみようと思う。
 森川氏は学齢期から昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲まで深川区に暮らしているが、生れは東京ではない。
 2019年12月29日付(04)に細目を示した『昭和下町人情風景』Ⅰ 昭 和【7】「記 憶」に、生地について以下のように述べている。22頁2~11行め、

 私はオッチョコチョイで喧嘩早く、判官贔屓で、東京の下町弁で喋るものだから、江戸/ッ子と思われている場合が多い。めんどうだから江戸ッ子で通すこともあるが、実は難波/生まれである。*1
 大阪市の野江というところ(当時は府下であったと思う)に四歳半まで住んでいた。だ/から大阪時代の記憶はすべて、四歳半以前のものである。
 家から数軒先は野原で、その先は貨物専用線の土手だった。子供たちが遊んでいる時に/貨車が通ると、最後尾にいる車掌に一列に並んで敬礼(シッケイと言っていた)すること/にしていたが、車掌も必ず答礼した。野原の周囲には田んぼがあって、夏の夜は蛙の声が/さわがしく聞こえてきた。蝗を取ってきて向かいの家の鶏にやると、金網の中の鶏が右往/左往して蝗を追いかけた。*2


 野江は大阪市に併合される前は大阪府東成郡榎並町であった。大正14年(1925)4月1日に大阪市に併合されて大阪市東成区野江町(現、大阪市城東区野江)になっている。従って森川氏が生まれたときは既に「府下で」はなかった。谷謙二(埼玉大学教育学部人文地理学研究室)の「時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」」の「京阪神圏」にて、検索窓に「野江」と入れ、地形図「1927~1935年」を選択すれば当時の様子が分かる。
 森川氏の云う貨物専用線は、現在、旅客線化されてJR西日本おおさか東線となっており、JR野江駅があるが平成31年(2019)3月16日開業で当時は土手が続くばかりだった。森川氏が生まれた頃には野江町の人家が集まっている辺りと貨物線の間に京阪電気鉄道京阪本線が通っていたが、昭和6年(1931)10月14日に現在のルートに移設され、現在の地下鉄谷町線野江内代駅の辺りにあった野江駅も現在地に移設されている。
 すなわち、森川氏が野江町に住んでいる間は京阪本線も近くを通っていたはずなのに、そのことが見えないのは「シッケイ」のような印象に残る思い出がなかったためだろうか。しかし23頁12行め、「勤め帰りの父」を「出迎えに行」った「駅」は、当時の地図を見る限りやはり、移設前の京阪本線野江駅であろう。
 毎日やって来ては芝居や手品を見せた二人一組の玄米パン屋、父に連れられて行った近所の玉つき場、そして、淀川の川開き、浜寺の海水浴、枚方の遊園地、箕面の瀧などに、おぼろげな記憶があることを述べている。
 この他にも初めて浴衣を着たときのこと、流行歌を覚えて口ずさんだことなどが回想され、そして24頁6行め「‥‥、上京の夜、汽車の窓の星/空まで、‥‥、かなりな記憶がよみが/えってくる。」と云うのであるが、森川氏が大阪から東京にそのまま移ったのではないことは、1月20日付(20)に引いた「投稿 風便り」op.70「海の記憶3 飯蛸」に見える通りである。(以下続稿)

*1:ルビ「ほうがん び いき・しやべ/なに わ 」。

*2:ルビ「 ど て ///いなご/」。