瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森川直司『裏町の唄』(25)

・元加賀小学校と周辺の小学校(3)明川高等小学校
 戦前の公立小学校で、進学する生徒のために放課後に補習が行われていたことについて、4月15日付「赤いマント(235)」に児童文学作家の岩崎京子(1922.10.26生)の回想を引いて「当ブログに取り上げた人々の回想にも、幾つか見えていたはずですが、あまり記事にしていませんでした」と述べたのだが、本書にも38~39頁【7】「予 習」にその記述があった。これは『昭和下町人情風景』には再録されていない。
 38頁2~11行め、

 五年生になってからだったのか、四年生の終りころだったのか覚えていないが、中等学/校へ行く者には、特別の補習をはじめることになったが、これを「予習」といっていた。
 男女合わせて十名ほどが、放課後も教室に残って予習をやった。
 先生が教えるときと、練習問題を自習するときがあったが、終るときには、先生が必ら/ずきて進み具合を見てくれた。
 日の短かいときには、帰りが暗くなることもあったが、教室には電灯がなかったのでそ/れほどおそくまでやっていたわけではない。
 小学校を出るとすぐに働らく者が、組の中には五、六名いて、そのほかはみんな明川高/等小学校へ行った。*1
 中等学校へ行かないこれらの生徒は予習をしなかったのでうらやましかった。


 郊外、世田谷区の新興住宅地の小学校に通っていた岩崎氏とは、大分様子が違う。岩崎氏は6年生(昭和10年度)になってから補習が始まったかのようであるが、森川氏は5年生(昭和12年度)と6年生(昭和13年度)の2年間やったことになっている。それから、岩崎氏はクラスの半分(人数とクラス数は不明)とするのだが森川氏のクラスは随分少ない。
 森川氏の所属したクラスについては、35~37頁【6】「男 女 組」に4年生のクラス編成時に、1クラス「五、六十名」の「男だけの組が二組と女だけの組が二組」の他に「体の弱い者ばかりが集められた」男女組と合計5クラス、さらに「ほかの学校からの生徒も含めて、どもりだけで‥‥編成」されていた「どもり学級」があり、森川氏は4年生から卒業まで男女組(三井学級)で人数は初め男子「十四名」と「女も二十八名で合わせて四十二名」、「五、六年になって編入する者もいたので卒業するときの男子は十六名」すなわち6年生のときは44名であったようだ。そのうち「十名ほど」ならばクラスの1/4である。
 岩崎氏との比較に戻って、教室に電灯がないと云うのは同じだが、岩崎氏の方ではコードを引っぱって来て電灯を点けて真っ暗になるまでやっていたのに、森川氏の方は、39頁8~9行め「‥‥、あまりおそく/まで勉強して体をこわすといけないからと終る時間を切り上げたこともあった。」――男子組や女子組はどうだったのか、気になるがその記述はない。
 さて、明川高等小学校については、ネットで検索しても殆どヒットしない。近藤信行(1931.3.11生)の未刊行エッセイ「東京・遠く近き」を丁寧に読み解いた kenmatsu-fs のブログ「東京 DOWNTOWN STREET 1980's」の2013-02-19「東京・遠く近きを読む(35)紀念誌」は、近藤氏の母校・明治小学校について近藤氏の記述を基に詳述しているが、その引用部分に、

 百週年記念誌によると、明治尋常高等小学校は、新校舎の完成する一年前の明治四十四年四月、高等科を分離して、となりに新設された明川高等小学校に移している。というは義務教育六年制が実施されたためであった。大正九年になって明川が西永町(平野二丁目)に移転、その旧校舎を明治小学校の女子生徒と臨海小学校の女子の一部がつかうことになる。校名は明治第二尋常小学校だった。震災後の再建で珍らしいヨの字型の校舎が出来上ったというわけだが、男子校、女子佼ともに明治小学校であった。しかし別物のような気配もただよっていた。

とある。この「別物のような気配」については、近藤氏より丁度4年と1日年上の森川氏も、「男 女 組」35頁9~11行めに、

 当時は男女組はほとんどなかったし、こんなかたちで男女組ができたのも始めてだっ/た。隣接の明治小学校では、クラスどころか校庭までも男子と女子が区分されていたくら/いだ。

と述べている。
 ところで明川高等小学校が大正9年(1920)に移転した先は、現在の江東区平野3丁目のようである*2。谷謙二(埼玉大学教育学部人文地理学研究室)の「時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」」の「首都圏」にて、検索窓に「江東区平野」と入れて過去の地形図や航空写真を閲覧して行っても、現在の平野2丁目に学校らしき施設は見当たらない。平野3丁目に地形図「1927~1939年」「1944~1954年」「1965~1968年」及び航空「写真1936」「写真1945-50」「写真1961-64」に、同じ形の校舎の「文」すなわち学校が見える。ここ(東京都江東区平野3丁目6番13号)には現在も「文」江東区立深川第六中学校がある。「江東区立深川第六中学校」HP「学校概要 > 沿革」を見ても、昭和27年(1952)4月1日設立より以前のことは初代校長就任しか記述がないが、いろいろ検索して見るに(何と入れて検索したか忘れてしまったが)江東区議会議員鈴木あやこのブログ「鈴木あやこの活動日記」がヒットした。すなわち、2012年12月01日「深川第六中学校60周年記念式典」に、以下の記述がある。

深川第六中学校は、木場にある中学校。
生徒数168名。1年生、2年生が各2クラス、3年生が1クラスの5クラス編成の、中規模校です。
 
昭和27年に、旧明川国民学校の被災校舎の一部を改修して創立。
昭和36・37年のベビーブームの際は1000人を超える大規模校だった時期もあったそうです。


 震災復興で鉄筋校舎が建ち、戦災後、放置されていたのを中学校として再利用したのである。2年制の高等小学校は国民学校令で昭和16年(1941)4月に国民学校高等科となったから、明川高等小学校もこのとき明川国民学校になったのである。そして、東京大空襲に被災してそのまま廃校になったのであろう。
 これも、図書館が開いていればもっと具体的な記述のある資料に当たれたはずなのだが、今はこのくらいで済ませるよりない。2017年1月13日付「『江東ふるさと文庫』(1)」に取り上げた『江東ふるさと文庫』全6冊を参照すれば何らかの証言があると思うのだけれども。(以下続稿)

*1:ルビ「めいせん/」。

*2:「百週年」や「女子佼」が雑誌の複写をスキャナで読み取ったときに誤認識したものだとすれば「二丁目」も実は「三丁目」とあったのを誤認識したものかも知れない。