・岩崎京子の赤マント(10)
それでは岩崎氏の赤マント体験について、前回一覧に挙げた文献①②③の記述を確認して行きましょう。
【A】当時の岩崎氏の状況
【B】赤マント流言の内容
【C】岩崎氏たち女子の対応
【D】知る人の少ない赤マント
岩崎氏の述べている内容は、上記のように分けて考えることが出来るようです。
大体の構成は次のようになっています。但し綺麗に分けられる訳ではありません。
①『紫ババアレストラン』(2006)
【B】→【A】→【C】→【D】
②『昔話と絵本』(2009)
【A】→【B】→【C】→【D】
③『現代に生きる妖怪たち』(2017)
【A】→【B】→【C】
児童書である①は、先に赤マント流言の内容を、恐らく自身の記憶以外の情報まで盛り込みながら詳しく紹介してから、自身の体験を述べています。
【A】当時の岩崎氏の状況
当時、岩崎氏は東京市世田谷区経堂の、恐らく経堂駅の北側に住んで、第二桜尋常小学校(桜丘小学校)に通学していました。
①59頁2行め、64頁1~2行め、*1
昭和十(一九三五)年ごろのことです。*2
‥‥‥‥
わたしたち六年生は、放課後、受験のための補習授業がありました。/秋もふかまると、教室に電灯がつきます。窓の外はまっくら。*3
②52頁3~5行め
それから、私、小学校の六年の時に、赤マントというのが出たんです。あの頃の六年生は塾な/んてないから、上級学校に入りたいという人に先生が補習をしてくれるんです。すると教室に電/気引っぱったりして、真っ暗なんです。‥‥
③8頁15行め~9頁7行め
私たちが六年生になった頃、中学校や女学校に進学する希望の子がふえて来ました。私たちの頃、ク/ラスの約半分が受験希望でした。【8】
進学するには、まず受験しなくてはなりません。四谷には有名な予備校があるとか、どこそこでは、/週末、模擬テストがあって、その成績が発表されるとか。有名校に合格する率の高い小学校に、越境し/て転校するといううわさなんかもありました。
そこで私たちの学校でも、六年生の進学希望の生徒は、放課後、補習を受けることになりました。
職員室からコードをひっぱって来て、六年生の教室に電灯がつきました。結構明るくなって、今まで/見えなかったもの、気がつかなかったものまで見え……。ま、そこまではいいんですが、補習が終っ/て、帰る道はまっくら。‥‥
当時、義務教育は小学校まででしたから、上級学校に進学を希望する生徒は入学試験を受けることになります。この辺り、当ブログに取り上げた人々の回想にも、幾つか見えていたはずですが、あまり記事にしていませんでした*4。小説ですが中島京子『小さいおうち』にも記述がありました。
児童書の①は、説明を殆ど省略した格好です。②も簡略過ぎて、戦前の学制を知らないと理解し難いでしょう。その点で③は十分な説明がなされています。
その受験が今よりも熾烈で、これも記事には取り上げて置きませんでしたが、木原孝一は受験に失敗した同級生が自殺したと自伝「世界非生界」に述べていました。
そこで六年生の後半になると放課後、受験対策に補習授業をやる訳ですが、受験指導に定評のある「合格率の高い小学校」すなわち本郷区の誠之小学校、麴町区の番町小学校や麴町小学校、赤坂区の青南小学校などには、田口道子『東京青山1940』にもあったように、公立小学校でありながら区域外から電車通学してくる生徒もいたのでした。
大正期に分教場として開設され、昭和5年(1930)に独立して開校したばかりの第二桜尋常小学校に、受験対策目的で区域外から通うような生徒は来ていなかったでしょう。しかし宅地開発が始まった郊外の小学校として、上級学校への進学希望は少なくなかったようです。
さて、最も記述の少ない①ですが、「昭和十年ごろ」としていることと、「秋もふかまると」と時期を示していることが注目されます。
4月9日付(229)・4月10日付(230)・4月12日付(232)・4月13日付(233)に問題にしたように、岩崎氏の小学校在学時期が確定させられなかったのですけれども、小学「六年生」の「秋」を「昭和十年ごろ」として回想していることで、岩崎氏はやはり昭和10年度に小学6年生、昭和11年(1936)3月に小学校卒業、そして昭和11年4月に恵泉女学園普通部に8回生として入学した、と考えて誤りないように思われるのです。(以下続稿)