昨日の続きで当初、「赤いマント(244)」と題して投稿したのですけれども、本の説明がしばらく続きそうで赤マント流言には及びませんので、書名の方を題にしました。
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本書の書影はナカネくんの2019年4月2日22:04の tweet に示されております。
以下、私の当日のメモによりどんな本なのか見て行きましょう。誤りがあるかも知れませんが、再び閲覧する機会が何時になるか分かりませんので、しばらくそのままにして置きます。しばらく赤マントの記述に及びませんが御容赦下さい。
判型は 18.5×12.6cm で、四六判で良いでしょうか。並製本でカバーは掛かっておりません。厚さは 1.9cm。
背表紙には表紙と同じ標題が上部にやや縮小されて入っております。下部に「同盟通信社……」こちらは拡大されておりますが「社」の下部から下は分類票が貼付されるなどしているために見えません。
表紙の写真は背表紙を経て裏表紙の左側 5.0cm まで及んでおります。右は白地で、中央下にゴシック体縦組みで大きく「高 山 書 院 刊」字間は5/6字分くらい、その下、最下部に横組みでやや大きく「¥1.60」と、数字は明朝体で「¥」が「刊」の下に位置しております。
遊紙があって扉*1、匡郭(12.0×8.0cm)の中央に明朝体太字で大きく「國 際 宣 傳 戰」その右、上寄せで明朝体でやや大きく「同盟通信社調査部編」、左に下寄せで編者と同じ大きさの明朝体で「高 山 書 院 刊」とあります。匡郭の右上隅は僅かに上にはみ出ており、左上隅は僅かに空いております。なお、匡郭右辺の外に枠のない赤い印記「新井直之氏寄贈」があります。縦組みで「直」と「之」の間が丁度匡郭右下隅に当たっております。
新井直之(1929.9.21~1999.5.13)は東京女子大学現代文化学部教授で、多くの著書があります。同名異人で本を出している人が2人ほどいるので、検索なども少々厄介です。年齢からして恐らく在職のまま死去し、歿後、蔵書を東京女子大学図書館に寄贈したのでしょう。
新井氏の人となりについては、最後の著書である次の本の Amazon カスタマーレビュー、ガンバ「新井直之という人がいた」が参考になります。
- 作者:新井 直之
- メディア: 単行本
次いで「編者の言葉」が独立した頁付「― 1 ―」で2頁、まづ1頁、やや大きく7字下げで「編 者 の 言 葉」とあって、やや間を空けて本文、
支那事變、歐洲大戰、とひきつゞく歷史上の大事件のために、こゝ五六年といふもの、/私達の机の上には、日本の各地から、世界の各地から、洪水のやうに通信が押寄せて、絶/えまがない。
この恐ろしい言葉の渦流の中に、ぢつと坐つて、日夜、眞實と虛僞を選り分けることを、/職業としてみると、私達には、宣傳といふことが、最後の日までの、憎らしい敵のやうに/見えて來る。
そこで私達は、この敵の本體をバラ/\に引き裂いて、心臟の毛の數を勘してみよう/と思ひ立つた。
この本では、だから何よりも先づ眞實を、目下、眼の前で行はれてゐる宣傳の實相を/紹介することに主眼を置いた。次いでこれらの恐る可き言葉が、どんな機構を通じて、誰/【1】が考へ出して、生れて來るのかといふことに眼を向けた。
「生きた現實」といふことを狙つたゝめ、この本の編纂に當つては、比較的短時日の中に/多數の協力を必要とし、同盟通信社調査部を中心に多人數の援助にあづかつた。
少し空けて2字下げで「昭 和 十 五 年 八 月」とあって、2頁左下(19字下げ)に「同盟通信社調査部長」と添えて大きく「内 海 朝 次 郎」とあります(「内」は「通信」、「海」は「調査」の脇、「朝」が「長」と同じ高さ)。
内海朝次郎(1900~1946)は国立国会図書館サーチで検索するに、著書として『通信特別会計の生れるまで』(昭和8年・交通経済社出版部)『遞信畠の先輩巡禮』(昭和十年八月 十 日印刷・昭和十年八月十五日發行・定價金壹圓五拾錢・交通經濟社出版部・序2+自序2+目次6+368頁)『続逓信畠の先輩巡礼』(昭和11年・交通経済社)の3冊がヒットし、『逓信畠の先輩巡礼』は国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧出来ます。それから、内海紀雄 編『内海朝次郎文集 一記者の戦中・戦後』(昭和53年8月・非売品・北泉社)が恐らく三十三回忌に、内海紀雄 編『追想内海朝次郎 ――続・一記者の戦中・戦後』(平成7年8月・非売品・内海紀雄)がこれも恐らく五十回忌に刊行されています。この2冊を編集した内海紀雄(1940.9.12生)については、著書のAmazon詳細ページ等にある、著者略歴が参考になります。
- 作者:内海紀雄
- 発売日: 2014/12/10
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
1940(昭和15)年、東京に生まれる。3歳から五島・久賀島(現五島市)の田ノ浦で育つ。五島高校を経て大阪大学経済学部卒。1964年に朝日新聞記者となり、大阪、松山、広島、高松、名古屋、東京間を15回転勤。代表取締役・専務・大阪本社代表を2006年に退任。日本高校野球連盟副会長、宝塚大学特任教授を経て、現在は公益財団法人香雪美術館常務理事・館長、東大寺信徒総代、長崎県公立大学法人評価委員会委員、五島文化協会顧問、五島市ふるさと大使。日本民俗学会員
これで、恐らく子息なのだろうと見当が付けられるのですが、そのことをネット上で明確に書いたものとしては、「FACTA ONLINE」で公開されている「FACTA」2018年2月号の記事「朝日新聞の「闇将軍」が居座る香雪美術館」があります。
‥‥。父朝次郎は長崎新聞を経て同盟通信の逓信省担当記者となったが、戦時中、46歳で死去。紀雄は幼少時から父の郷里である五島列島の離島、久賀島の田ノ浦地区で育ち、五島高校を経て阪大経済学部を卒業。1964年に朝日新聞社に入社したものの、松山支局員、大阪社会部長、大阪編集局長などと、その軌跡の大半は大阪本社管内だった。06年に専務・大阪代表を最後に退社し、日本高校野球連盟副会長に天下り、その後、同美術館に転じた。
内海朝次郎の死去を「戦時中」としていますが子息が「一記者の戦中・戦後」を副題とする本を2冊纏めているのですから、これは誤りでしょう。この2冊がともに8月刊であるところからして、昭和21年(1946)8月歿でしょうか。――と見当を付けたのだが違っていた。(以下続稿)
*1:【5月14日追記】扉にはやや厚い紙を使用している。