瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(58)

・『森銑三著作集』続編(3)
 昨日の続き。
・『森銑三著作集』続編 第十三巻(雑纂一)一九九四年一〇月一〇日初版印刷・一九九四年一〇月二〇日初版発行・定価6602円・中央公論社・579頁・A5判上製本

 168~172頁「徳川幕府の機密文書」は565~579頁「編集後記」を見るに567頁8~9行め「「徳川幕府の機密文書」は、雑誌『歴史と人物』昭和四十八年五月号に新仮名遣いに拠って発表され、のち単行/本『史伝閑歩』に収められた。底本は前に同じ。また仮名遣いを改めた。」とある。「前に同じ」とは5~6行めに「‥‥、のち単行本『史/伝閑歩』(昭和六十年、中央公論社刊、のち平成元年、中公文庫刊)に収められた。所収本文は、文庫版を底本とした。/‥‥」。
 その冒頭、168頁2~6行め、

 徳川幕府には、老中から老中へ伝へる機密の文書があつたのではあるまいか。
 確か赤堀又次郎翁であつたと思ふが、かやうな疑問を筆にせられたことがある。しかしさやうな文書が現存し/てゐるわけではないのであるから、それは翁一人の想像説といふに止まつて、それに対して、否定した人も、肯/定した人もありはしなかつた。けれども今にして私は、改めて翁の炯眼に敬意を表する。明治二十六年五月二十/六日の新聞に出た「想古録」に拠れば、さうした機密文書は、やはりあつたらしいのである。

とある。この赤堀氏の文章が何であったかは追々調べて見ることとしよう。主題は新聞連載の「想古録」であって赤堀氏は導入に使われているだけである。
・『森銑三著作集』続編 第十四巻(雑纂二)一九九四年一二月一〇日初版印刷・一九九四年一二月二〇日初版発行・定価6602円・中央公論社・563頁・A5判上製本

 5~464頁、本巻の大半を「読書日記」が占めている。559~563頁「編集後記」の559頁3行め~561頁11行めに刊本と初出に触れてある。ここでは初出に関する記述を抜いて置こう。561頁3~8行め、

 以下に初出を明記する。
 昭和八年五月二十七日より同九年八月三十日に至る日記は、雑誌『日本及日本人』昭和八年六月十五日号より/同九年十一月五日号に、銑鋧子の署名を以て「読書日記」の表題で連載し、同十年一月一日より同年五月十六日/に至る日記は、同誌の同十年二月一日号より同年九月一日号にかけて、木兎生の署名を以て「読書漫録」の表題/で連載され、同十二年七月一日より同十四年三月三日に至る日記は、雑誌『日本古書通信』昭和十二年七月号よ/り同十四年四月号にかけて、閑々子の署名を以て「読書日記」の表題で連載された。‥‥


 87~165頁2行め「昭和九年」145~154頁8行め「七月」の最後、154頁5~8行め、

三十一日 『日本及日本人』八月一日号来る。東山道人の「板倉勝明」まづ嬉し。勝明が大坂城番として彼地に/在りし時の諸家との往復の書を輯めし『備忘録』といふ書、甘雨亭の蔵板中にあるよし。われらのつひぞ知らぬ/ものなり。赤堀又次郎氏の「佐藤信淵の事に就いて」、江戸時代に学問と実際と没交涉なりしことにつきて教へ/らるるところあり。こはなほ考ふべき問題なり。

とある。144頁8行め~154頁8行め、昭和9年(1934)の「六月二十九日」条から「七月三十一日」条までの初出は「日本及日本人」昭和九年十月十五日號/第三百七號(昭和九年十月十三日印刷納本・昭和九年十月十五日發  行・金五拾錢・政教社・百五頁)九十六~百頁下段2行め「讀書日記十八」である。
 さて、初出では百頁中段22行め~下段2行め、

七月三十一日、日本及日本人八月一日號來/る。東山道人の板倉勝明まづ嬉し。勝明が大坂/城番として彼地に在りし時の諸家との往復の書/を輯めし備忘録といふ書、甘雨亭の蔵板中にあ/るよし。われらのつひぞ知らぬものなり。赤堀/又次郞氏の「佐藤信淵の事に就いて」江戶時代/に學問と實際と沒交涉なりしことにつきて教へ/【中】らるゝところあり。こはなほ考ふべき問題な/り。

となっている。
 これは「日本及日本人」昭和九年八月一日號/第三百二號(昭和九年七月二十八日印刷納本・昭和九年八月 一 日發  行・金五拾錢・政教社・百四頁)四十五~四十七頁下段2行め、赤堀又次郞「佐藤信淵の事に就いて*1」を読んでのことである。冒頭、四十五頁上段1~6行め、

 七月一日號の『疑問の人佐藤信淵』を讀みて、如何にも尤/な事と深く感服して、更に思ひよる事が多い。
 德川時代の學者と云はれた人の說は、殆ど皆空論で、佐藤/の家學のみではない。稀に實行に著手したも失敗に終つたが/多い。實地家と理論家とが別々に行列を作つた。
 夫れに就いてなほ遡つて云へば、‥‥

とあるように、そもそもは森氏の「疑問の人佐藤信淵」を読んでの赤堀翁一流の感想文なのであった。なお四十七頁下段の残りは2つの埋草記事「回教徒、羊を殺して日本にて罪となる」「潜水工作船」は共に末尾に(赤堀)とあって、赤堀氏が書いたもののようである。
 森氏は昭和17年(1942)10月に『佐藤信淵 ――疑問の人物――』を刊行しているが、この意見の初めての表明が、「日本及日本人」昭和九年七月一日號/第三百號(昭和九年六月廿八日印刷納本・昭和九年七月 一 日發  行・金五拾錢・政教社・百頁)四十三~四十九頁下段7行め、森銑三「疑問の人佐藤信淵」であったらしい。これは末尾に(昭和九年五月三日某會に於ける講演要旨。同二十三日補訂)とある。下段の残りは「女の髻と蒙衣」と「枝の伐りかた」と云う埋草記事で共に末尾に(赤堀)とある。
 こうして見ても赤堀氏は「日本及日本人」に大いに関わっている。余裕が出来たら頭から点検して見よう。(以下続稿)

*1:「目次」には「佐藤信淵の事に就て」とある。