瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

阿知波五郎「墓」(19)

 大学が再開になったのか、それとも入構規制が解かれて登校出来るようになったからなのか、大学生が連れ立って歩くようになった。あんなに「密です」とか云って脅して自粛させたのに、掌を返したように野放しである。
 昨日が都内の図書館の返却期限であったが、数日前に35℃とか云う予報で、今日は、別の日だったかも知れないが26℃との予報だったので、今日の午前出掛けることにした。しかし昨日の午前の方が曇っていて涼しかった。マスクをして行ったが空気が温まり切っていないので、走っていて風に当たると涼しいし、そんなに苦痛ではなかった。先日書いたように混雑レーダーでルートを選定して出掛けたので、人混みに突っ込むようなこともなく、途中、都立高校の脇を通り掛かって、誰もいないかのように静まり返っていたが、帰り、昼過ぎに通り掛かると少ない人数ながら下校の生徒が何人もいて、分散登校で午前で終わりらしい。しかしいよいよ通勤電車が混み出しているのに、生徒たちが普通に乗るようになったら、完全に元通りである。新しい生活様式も何もあったものではない。北京は休校になったそうだが、夜の街さえ押さえて置けば十分なのだろうか。

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・「七月二十二日。」条(2)キャラメル・煙草・渋谷
 昨日は4日め「七月二十二日。」条の初めの5行ほどを検討して終ってしまったが、今回はその続き、427頁17行め~428頁10行めを見て置こう。ここで「飢え」について、初めて具体的な描写がなされるのである。
 さて、私などはせいぜい(中学時代、或いは高校山岳部時代からの癖として)自転車で遠乗りに出掛けたり、2018年9月1日付「古典籍原本調査の思ひ出(1)」に述べた、図書館に貴重資料の閲覧に出向いた折などに、時間を惜しむのと面倒なのとで昼食を摂らずに済ませてしまったことがあるくらいで、飢餓状態に陥った経験がないので本作が何処まで「リアル」なのか、見当が付き兼ねるのであるが。

‥‥。ハンド・バッグに、子供を連れて動物【427】園の招待を受けた時キャラメルを貰って入れてある事を想いつく。思わず手が顫えて、ハンド・バッ/グをまさぐる。手鏡もパフも……すっかり抛り出して、やっと底からキャラメルの箱を発見した喜び/……手を顫し、目を輝かし乍ら開けると、僅か一つそれも板のように濡れくずれて、箱にくっついて/居る――それもその筈である。太郎たちにせがまれるままに、分け与えて了った筈である。思わず涙/がじ……とにじむ。しまは紙ごとキャラメルを口に入れる――口一杯甘露のような甘さがしみ渡って/くる。唾液が、こえに誘れて、ずくずく湧き出、美味、美味……思わず舌鼓を打つ。これに味を覚え/た舌は、飢餓に服従しない……机の抽斗という抽斗、片端から引き掻きさがす。煙草は二本出て来た/が、遂に喰べるべきものは一つもない――絶望と疲れで、卓子に手を拡げたまま俯伏せになり、まど/ろむ。卓子の抽斗を散らけたことが気にかかる。身辺を美しく整理し、見る者をして感動せしめて死/にたい想いが心の一角で未だにわだかまって居る。


 しばらく眠って、目を覚ますと遠雷。段々近くなる。そしてこの日の最後、428頁14~17行めに至って、

‥‥、雷が書庫へ落ちればいい……/そうした心の反逆を不思議に冷静に眺め乍ら、運命に身を投げ出す。
 急に渋谷が懐しく、抽斗から捜し出した煙草を嚙む。煙草の香り――渋谷の唇の味が、つーんと舌/を刺す。

と、初めて渋谷のことを懐かしく思うのである。煙草の香りがそのよすがになると云うところに、時代を感じる。(以下続稿)