瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

阿知波五郎「墓」(18)

 昨日の続き。
 何だか1日ずつ確認するような按配になってしまった。
 どうも、この小説、細かく見て行くとおかしなところが次々と出て来るようである。
 6月14日付(16)の最後に指摘した、「今日も今日」のような瑣事もあるけれども、もう少しややこしいものもある。
 2016年10月9日付(04)に見た、結末近くの、開館までまだ「一ヶ月」あるのか、それとも「旬日足らず」すなわち数日しかないのか、――これなども私なぞには気になるのだけれども、やはり2016年11月1日付(08)に確認した、閉じ込められる前日(七月十八日)に、保育園の医務室から昇汞錠を持ち出し、「昇汞自殺の苦しみは、百も承知」と覚悟して、親友宛の遺書を準備していたはずなのに、閉じ込められてから昇汞錠に全く触れていないことが、2016年10月6日付(03)に見た、鮎川哲也をしてアンソロジー収録を断念せしめた「ストーリーに矛盾する個所」なのだろうと思う。
 しかしながら、4年前の秋、鮎川氏以来(そして鮎川氏自身にとっても)不明になってきた「矛盾」を初めて(!)と云うか、改めて突き止めるくらい精読したのだけれども、やはり切っ掛けは「閉じ込められた女子学生」との関連を確認するためだったから、閉じ込められてからの主人公の心身の状態まで細かく追っていなかった。今回、そこを追い掛けて、どうも、当時気付けなかった「矛盾」と云うか、設定のぶれみたいなものが、気になり出したのである。
 頭木氏の記憶との照合からは外れるが、目下、分けてやっている余裕がないので、これもついでに片付けて置こう。
・「七月二十二日。」条(1)上高地行きの約束
 4日め「七月二十二日。」条(427頁12行め~428頁)は、427頁13行め「夜来から降り出した雨は、‥‥」に始まる。13~14行め「一日中休みなく」雨音が「聞え/て来る」ばかりで「子供の声も聞えて来ない」。そこで「園」が今どうなっているかを、閉じ込められた当日(七月十九日)以来3日振りに想像する。427頁14~17行め、

‥‥。園ではきっと、大騒ぎして居るに違いない。或はもう渋谷も、そ/れを知って居るかも知れない。しかし、渋谷はきっとしまが、あれから書庫を出て松本行の汽車に乗/ったものと信じてで居るあろう。だから園長も渋谷も今頃は松本辺りに居る……何かそれをわらいた/い気持ちが湧くが、顔の表情筋がこわばって少しも動かない。‥‥


 いや、3日前、七月十九日の(恐らく夕方の)想像は、まだ予想――2016年11月1日付(08)の初めに引用したように、これから園の同僚で親友の那美が、園に残して来た遺書を発見するであろうと云う――であった。帰らなくても怪しまれないよう「里子に行った旧園児を訪ね乍ら、伊豆を周る」口実で「三日の休暇を貰って居」た。そしてそこでは「渋谷にも」同じことを「明日一日の行程で」と言ってあり、「追って帰園後改めて休暇を貰って上高地へ、さそい合って行く手筈」だ、となっていた。
 上高地に行こうと云う約束は、渋谷との七月十九日の朝(416頁15行め~417頁)そして別れ際(418頁1~12行め)の会話でも、主人公「しま」から切り出されていたが、ちょっと違っているように読める。2016年11月1日付(08)の3番めの引用、主人公が書庫の仕事を手伝うと申し出る場面の続きから、抜いて置こう。417頁9行め~418頁13行め、

「じゃ、手伝って下さいよ」
 渋谷は優しくそう云うと、しまの手をぐっと引き、その唇に、彼の冷い唇を圧える。
 ――しまはしびれた体の中から、涙が湧然と流れ出る……
「さあ、今日は忙しいよ。明日から一ヶ月閉館になる。――又山へ行こうよ」
 リズムというものは不思議だ。渋谷の弾んだ口調に、しまは、今の今までの張りも、すすす……と/溶けて、不思議な程、身も心も軽くなる。
「手伝うわ。又、山へ行きましょうよ。三日休暇がとれてよ。上高地へ行きたいわ――」
 渋谷はもう、しまの声を後に、らせん形になった階段をぐるぐる昇り乍ら三階の書庫へ上って行く。/しまも、空腹も疲れも忘れて、その後から、いそいそと従いて昇った。
 ――七月十九日、暑中閉館の前日の朝のことである。【417】
 
「しまさん、もういいよ。園の方の仕事があるんじゃない。お帰り。もう整理が出来てるから大丈夫/なんだ――」
 渋谷は昨今、しまからうとい。
「そう。大丈夫だけど、……そんなに御心配なさるなら帰るわ。――じゃ、上高地行きお約束してね。/きっと、きっと……」
「ああ、仕事が片付き次第ゆこう。僕の方から電話で相談する――」
「いつになるの」
「さあわからない。行くことは行くよ」
「じゃ、そのときね……じゃ、キッスして」
 渋谷は黙ってしまを抱いた――。
「さようなら――」
 しまは、もう一度渋谷をよく見つめた。渋谷はそのしまの視線を……つと避ける。
 しまは、館外に出る。‥‥


 その後、渋谷に気付かれずに書庫に忍び込んで、2階の書棚の蔭に隠れるのだが、この最後の会話では、伊豆に行くことは話題に上っておらず、上高地行きも確約ではない。ちなみにこうやって入力して見て、初めて418頁の初めに1行分の空白があったことに気付かされた。
 それはともかく、これが、4日め(七月二十二日)には、先に引いたように「渋谷はきっとしまが、あれから書庫を出て松本行の汽車に乗ったものと信じてで居るあろう」となってしまうのである。「電話で相談する」はずだったのではないのか。
 園長や追手が松本辺り、或いは上高地方面へ行っていると云うのは、那美に宛てた遺書に「上高地を指して行く。槍の雪渓で、死にたい」と書いていたからだが、渋谷は保育園に残した遺書の存在を知らずに(或いは保育園から遺書の内容を知らされて)松本辺りに行っていることになる。
 2016年11月1日付(08)に「この親友宛の遺書には渋谷のことが書いてあったのかどうか、那美が渋谷の存在を知っていれば書いたでしょうが」と疑問を表明していたのだが、渋谷はこれまでも保育園に「電話」していたはずで、どうやら渋谷の存在は、保育園でも周知のことであったようだ。
 それはともかく、1日め、朝から書庫が閉鎖されるまでの間に昼食を摂った形跡がなく、本文にも417頁17行め「空腹も疲れも忘れて」とあって、朝食も(早起きしたこともあってか)満足に摂れていないらしいのである。
 ここで最初に引用した4日め「七月二十二日。」条に戻ると、ここに「顔の表情筋がこわば」ると云う、絶食の影響が初めて描かれていることも、注意されるのである。(以下続稿)