瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

阿知波五郎「墓」(8)

 昨日の続き。
 まづ、事故を擬装する点ですが「七月十九日」条の最後、420頁16行め〜421頁8行め、閉じ込められた直後に、書庫の電灯のスウィッチを点じて、

 しまは、渋谷の掛け慣れた回転椅子に身を投げかけ、卓子に打俯して思う存分泣いた。そうして居/るうちに、その悲しみの中に、不思議にも甘い耽溺を感じ……仕舞には愉悦まで湧いてくる。しまは、/今、渋谷に擬せられた刃に伏したと同じである。刻々迫る前途の不安には何の苦痛をも呼ばない。【420】
 しまは顔を上げて、美しいシャンデリアを仰ぎ見た。しまが、この中に閉されて居る事実を知る者/は神より他にない。しまは今朝、保育園を出るとき、那美の布団のシーツの中へ自分の遺書をおいて/来た――親友の那美に自分の悲劇を明したかったからである。上高地を指して行く。槍の雪渓で、死/にたい――それを美文でかき綴り、白い大きい封筒で封じて置いた。夜就寝の頃になって那美は屹度*1/これを発見する――追手が上高地方面へ向けられることは必定である。しまは今朝、園を発つとき、/三日の休暇を貰って居る。里子に行った旧園児を訪ね乍ら、伊豆を周ると云ってある。渋谷にもそれ/が云ってある。ただ渋谷には明日一日の行程で、追って帰園後改めて休暇を貰って上高地へ、さそい/合って行く手筈であった……。

となるのですが、これでは渋谷は、主人公が「七月二十三日」に想像したような、不幸な事故によって愛する人を失った悲運の男を演じることは出来ないでしょう。親友に遺書を残している以上やはり覚悟の自殺であって、男の職場に閉じ込められたのが事故か故意かはともかくとして、こうした行動の原因が渋谷にあるのではないか、と周囲に思わせるには十分です。――渋谷には知力の全てを傾けて、この疑惑を取り繕ってもらいたいところです。
 それはともかく、この親友宛の遺書には渋谷のことが書いてあったのかどうか、那美が渋谷の存在を知っていれば書いたでしょうが、本文からは分かりません。しかし主人公が忘れていた(?)くらいなのですから、そこまでは書いてなかったのでしょう。ところで、この遺書を何時書いたのか、ですが、416頁12〜14行め、

 保育園の医務室の劇毒薬の箱から、昇汞錠を盗み出した。昇汞自殺の苦しみは、百も承知し乍ら、/それを遮る事すら出来ない。綿々と遺書を書いて居る間に、ふと渋谷の顔が泛ぶ……もう一度渋谷を/確かめ度*2い――。

とあるのが、それであるようです。これは10月10日付(5)に引用した冒頭、414頁2行めの「渋谷の顔を見てから、死にたい」と重なって来ます。主人公は寝床で、3〜4行め「一夜中まんじりともせず/思い悩んだ挙句、夜も白々と明ける頃」になって、「渋谷の顔を見て」確かめたいという、4行め「晶華した思念に辿りついた」ことになっています。これは少し後、十九日の朝に出勤してきた渋谷に会って、417頁6〜8行め、

「お手伝いしてもいいわ」
 しまの、心にもない言葉が、昨夜来の自分の悲壮な決意に反して、こうも滑らかに出るのに、われ/とわが心を疑う――

とある「悲壮な決意」にも対応するのでしょうから、やはりこの「遺書を書いて」いたのは前日の晩のことでしょう。「綿々と……書いて居る」と云うのですから、渋谷に宛てて書いているように読めますが、閉じ込められて後の記述を見る限りでは渋谷宛の遺書は七月二十三日になって書き始めていて、事前に用意してあった風ではありませんから、これは親友宛の遺書と見なさざるを得ません*3
 そして、こここそが、閉じ込められて後の展開と、大きく矛盾する箇所なのです。
 主人公は飢えに苦しみながら餓死するのを待つばかりで、10月11日付(6)で見たように渋谷宛の遺書を書き始める直前にはマッチを探して書庫内に火を付けようとさえ、しています。マッチが見付からなかったために実行出来ませんでしたが*4、この間、いざとなれば服毒自殺しようと云う発想が、全くないのです。
 いえ、確実に死ねる手段を持っているのなら、もっと早く遺書を書いてあっさり死んでしまえば良かったのです。盗み出した昇汞錠はどこに行ったのでしょうか?
 もし、この段落を生かすつもりがあったとするなら、主人公は渋谷の席で遺書を書き、心行くまで物思いに耽った後、服毒により速やかに自殺するつもりだったのが、何らかの手違いで昇汞錠を書庫内に持ち込み損ねたまま閉じ込められ、そこで飢えと体力・気力の低下に何日もの間、苦しみながら死ぬことになってしまった、と云う風に展開させないといけません。しかし、阿知波氏はここにこう書いたことを忘れてしまったようです。
 そこで、修正案ですが、この段落の前半、差当り416頁の12〜13行めの一文を削除すれば、良さそうです。ただ「‥‥、それを遮る事すら出来ない。」のようなニュアンスは残したいところなのですけれども。(以下続稿)

*1:ルビ「きつと」。

*2:ルビ「た」。

*3:渋谷宛とすると「ふと渋谷の顔が泛ぶ」どころではなく、ずっと「渋谷の顔」が意識されていたでしょうから、やはりこの遺書は親友宛でしょう。

*4:ほぼ密閉された空間に火を付けたとして、焼死でなくとも不完全燃焼で一酸化炭素中毒死出来るでしょうから、確実に死ねます。