瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

阿知波五郎「墓」(17)

 昨日の続き。
 次いで6月12日付(14)に引いた3日め「七月二十一日。」条の冒頭の「渇にたえられぬまま」水を飲む場面があり、そして初めて、何でこんなことを計画したのかが、説明される。続きを抜いて置こう。425頁2~11行め、

 野球のボールが書庫の壁に当ったらしい。子供たちの喚き声が聞える。
 自分はこの書庫の中で、何日生きて居ることであろう。死ぬときは、この大卓子を前に、渋谷の椅/子に、正しくかけて、美しく高雅な本の頁を繰りつつ身まかりたい――一ヶ月後に書庫を展*1いて、そ/の屍体が発見されたときのいろいろの波紋や感動を、想像することができる。失恋の極、自ら恋人の/書庫に閉じこめられて、刻々の死を待つ……その悲壮美は人の心を打たずには措くまい。或は、渋谷/が故意にしまを、この書庫に閉じこめて、彼女を死に至らしめたと解釈する人もあるであろう。かく/思われることも亦*2、無言の渋谷への復讐である。何よりも、閉されて居る間の苦悩を同情と悲しみと/で見守ってくれることの安堵――。
 しまは、そんなことを想いつつ、何か書き残して死に度い欲望にも燃えたが、暑さの苦しみに、そ/れを敢てする勇気もなく、籔蚊に悩まされ乍ら、うつらうつらと仮睡する。


 しかし、この美しく死のうと云う計画は5日めになっても、2016年10月31日付(07)に引いた「七月二十三日。」条の最後から窺われるように実行されていないようで、後述するように7日めになっても、遂に実行されなかったのである。
 そして、主人公を苛むのは「飢え」だけではない。「暑さ」と「籔蚊」も主人公の気力を奪っている。そして仮睡しつつ見る夢の中で思い出すのは、425頁12行め~427頁8行め、前日(2日め)と同じ保育園のことであった。
 前回見たように主人公は、伊豆に里子に行った旧園児を見回ることを外出の口実にしていたが、ここでその背景が語られるのである。――労働力として里子制度を悪用する雇主から、園に戻った旧園児が、漁船に乗っているうちに覚えた煙草を押入れに隠れて吸って、その不始末から2棟を全焼する火災を起こしてしまう。
 こうした当時の世相が、主人公の背景として書き込まれているのが、本作の読み応えになっていて、これは6月8日付(12)に引いた、阿知波氏の長女・西川祐子が、短篇「幻想肢」に「見たこともない」バレエについて書いたことについて、戦争で傷を負った「自分の心を治療」するために、設定した作品の世界に集中して「一生懸命に取り組んで一編の小説を書き上げ」ていたのでは、と指摘していたことが思い合わされる。この、終戦直後の保育園や、里子制度を悪用して戦災孤児を酷使していたことについては、2016年11月2日付(09)に調査するべき課題として挙げて置いたのだけれども、未だに果たさぬままである。
 それはともかく、最後(427頁9~11行め)に、また空腹のことが持ち出される。保育園の回想を纏めた1行(427頁8行め)とともに抜き出して置こう。

 その懐かしい想い出が、夢の中で、いろいろ変型して現れる。
 ――空腹の苦痛が漸く迫って来る。幾度も鉄扉の許まで歩いて行って、思わず救いを求める。ただ/……うつろに反響してくるわが声の、力なく望ないのに驚きあきれるばかりである。この書庫の本、本、/本、が何と値打ちのない一ヶの石塊に思え、それをつくった学者たちの無情に腹が立ったことよ――。


 空腹と「本、本、本」を対置する書き方は、前回引いた2日め「七月二十日。」条にも見えていた。すなわち、主人公にとって「空腹」は愛情ではなく、書庫に充満する、腹の足しにならぬ知識の集積に対置されているので、その先にはもちろん「学者」の1人である「司書」の渋谷の存在があるはずなのだが、2日めそして3日めでは、暑さ・空腹・籔蚊のために、男性のことは殆ど問題になっていないのである。(以下続稿)

*1:ルビ「ひら」。

*2:ルビ「また」。