結局、祖母は最後には救急車で病院に運ばれ、そしてそのままマンションに戻ることはなかったのである。
しかし、私は6月26日付(02)の後半に書いたような事情で立ち会っていないので、話は聞いたけれども、正確なところを再現出来ない。
ただ、祖母の死を承けて家人が妹たちと電話で話すのを聞いていると、衰弱して意識も朦朧としているような祖母が、集まった孫たちに「△△ちゃん、あなたは▽▽だったわね」と、遺言のように語り掛けていたのだが、バイオ関係の研究をしていた上の妹がその様子を見ていて「救急車を呼んだ方がええ」と判断して、それで119番に掛けて救急車を呼んで、救急病院に搬送されることになったのである。しかし、家人はもう最期なのだと覚悟して、救急車は思いもよらず涙目になっていたそうだ。
しかし、コロナウィルスで移動自粛を強制(?)され、東京にいる私ら孫とその連れ合い、甥や姪たち、養女に出した北海道の娘とその家族が葬儀に参列出来なかった今になって振り返ると、あのまま救急車を呼ばなかったら、皆、葬儀に集まって盛大に見送ることが出来たのに、と、別に責める訳ではないのだが、ちょっと心残りになっているようだ。
さて、搬送されて診断を受けるに、命に別状はなく、脱水症状で、それから認知症が出ているとのことだった。――どうも、スポーツクラブの風呂に通わなくなった頃かららしく、もともと少食になっていたのが、食事も碌々摂らずに、午前中から小さい缶のビールを飲んで、それ以外に水分を摂らず、喉が乾くと午前中に飲んだことを忘れてまたビールを飲んでしまう。それで脱水症状を起こしてしまったらしい。
やがて義理の両親が上京して、救急病院はじきに出ないといけないから、別の病院に転院する手続きをして、長期入院出来る病院か施設を見付けるまでの繋ぎとして、短期間引き受けてくれる病院に移ったのだが、そこで夜中に「家に帰せ」と暴れて大変だったらしい。自分の家(マンション)ではないことは分かるが、どうして此処にいるのかが分からない。妙なところに連れて来られた不安と恐怖で暴れて、取り押さえようとした義父の頭を「馬鹿野郎!」と言って蹴ったそうだ。
そこで思い出したのは、二十余年前に死んだ、私の母方の祖母のことである。
穏やかな仏様のような人で、実際信心深くて毎朝、仏壇の前で領解文(改悔文)*1を唱えて、私も泊まりに行ったときには毎朝一緒に手を合わせていた。私がまだ赤ん坊の頃に死んだ祖父の、月命日に坊さん(と云っても真宗だから有髪)を呼んで経を上げてもらっていた。痩せていて、健康的と云った感じの人ではなかったけれども、80代になっても元気にしていたのだが、ずっと通っていた書道の教室の、親睦旅行で温泉に出掛けた際に、大広間での夕食の際に手洗いに立って、暗いところにあった僅かな段差に躓いて骨折して入院して寝ているうちに、急速に認知症が進行してしまったのである。
母がほぼ毎週、たまに父も同行して見舞いに行っていた。
私も一度、出掛けたのである。そして、それが祖母に会った最後になってしまった。
博士課程の院生だったので、調査旅行を兼ねて出掛けた。それまでなら大阪には青春18きっぷで東海道線の風情を愉しみながら呑気に出掛けるところだったが、秋の半ばで18きっぷの使える時期ではなかったし、祖母の見舞いという用件もあるので新幹線に乗った。新大阪に着くと、今だったら計画運休になっているくらい酷い台風が大阪を直撃していて、大阪駅まで1駅在来線に乗る必要があったのだが、夕方の新大阪駅のホームは人で溢れかえっていた。そこに漸く大阪方面へ行く、西明石行だかが到着したのだが、下車しようとする人に構わずに、ドアが開いた途端にどっと乗り込み出したのである。私もその流れに押されて乗ってしまったのだが(苦笑)下車させてから乗った方が良いに決まっているのに、何を考えているのだろうと呆れ果てた。以来、私は大阪に良い印象を持っていない。落語その他上方藝能の方が、東京のものよりも好きなのだけれども、どうも、あのときの立派ななりをした大人たちが、無言で、下りようとしている乗客に構わず、いや、誰1人下ろすことなく、我先にと押し入った、あの異様さが、今の大阪の本性のように思えてしまうのだ。
それはともかく、大阪駅で無事乗り換えて、地下鉄で何駅か、母に聞いていた通りの道を辿って、その頃には風雨も収まって来ていたように記憶しているが、病院に着いて、案内を請うて病室を教えられて行って見ると、祖母はベッドで上体を起こしていた。そこで挨拶をして不調法な私のために母が見繕ってくれた見舞いの品を差し出したりしつつ挨拶して、ベッドの脇に椅子を置いて少し話しているうちに、何だか話が噛み合っていないことに気付かされた。どうも、近所の家の倅が来てくれたつもりで話しているらしい。近頃余り会っていないとは云え、まさか愛娘の次男が分からないとは思えなかったので、こちらは誤解を解こうと続柄を説明して見たのだが、それは余り耳に入っていない風で、急に、ベッドの柵をつかんで暴れ出したのである。そんな怪しい者ではない、と言っても一向に通じない。困って看護婦を呼んで、やって来たベテランらしき人に事情を話す。その間も祖母は恐ろしく強い力で柵を握り締めている。一部始終を聞いた看護婦は「あなたがいると落ち着かないから、早く帰って下さい」と冷たく、いや事務的にきっぱりと、私に引導を渡したのである。
義理の祖母のことを思い合わせると、――近所の▲▲君でないとしたらお前は誰なんだ、と云うことで、限りない恐怖を覚えて必死に身を守ろうとしていたのである。
祖母の記憶からは最近10年だか20年だか分の記憶が飛んでいて、私の両親なら多少老けたくらいだから良いが、20代の孫は、このときの祖母の頭には存しないのである。だから近所の▲▲君だと思って受け容れようとしたのに、違うと言う。孫だと言う。▲▲君とてもっと年上になっていたろうと思うのだが、そのくらいしか思い浮かばない。時間の経過を考えに入れて、孫がオッサンになっていると云う想像が出来ないのである。いや、傘寿の祝いに一緒に旅行しているから、全く見たことがない訳ではない。しかし、そこの記憶がなくなっているのである。
今、検索して見ると、私が台風の中、大阪に行ったのは平成10年(1998)9月22日(火)であった。奈良県で玄関のガラス戸が割れて、ガラス片が刺さって動脈を切ったことで女性が2人死亡した、と云うニュースが恐ろしく印象に残っていて、それで検索したらすぐに分かった。うち1人はガラス窓であった。(以下続稿)
*1:当時はこういう名称であることも知らなかったし、もちろん意味もよく分かっていなかったが。