瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

祖母の遺品(03)

・若山家の関東大震災(2)
 昨日紹介したものに隣合うように、震災直前の若山次郎の葉書3通が保存してあった。
・若山津子宛(大正12年8月)二十九日付若山次郎葉書
 青黒インクで表に「朝鮮羅南本町第五九/號官舍/若山津子様/至急」とあり、額面の下、左寄り「二十九日」右寄り「下十條」左寄り「次郎」とある。消印は波形の下に「田稲早/12/8.29/后7-8/〒」


 通信面には「今日歸京致しました。御母様樋/口の番地は下十條一〇九二で御座/います 何卒手紙出して下さい。僕に/も皆んなから手紙を下さい一通も/まいらないので毎に落膽してお/ります。御丈夫でしょうねー。   さよなら
・若山久枝宛(大正12年8月)三十日付若山次郎葉書
 鉛筆書きで表に「朝鮮羅南本町第/五九號官舍/若山久枝様」とあり、額面に「子王/12.8.30」の消印、その下「三十日 王子 次郎」地名は右寄り。


 通信面「皆々様御丈夫ですか私は至極/丈夫です三十日に三人會合仲よ/く一日をば過し三十一日は樋口か/ら是非三人来てくれといふので/いきます。    敬具/御母上様    次郎」左端の余白に黒インクで「三人集ツテモ仲ヨク久枝文江菊枝サン等ノヿヲハナシテ居リマス~」と添える。
・若山菊枝宛(大正12年)八月三十一日付若山次郎葉書
 表に墨書「朝鮮羅南本町/第五九号舍/若山菊枝様」、額面には「12.8.30」と読める消印、その下に「八月三十一日王子次郎 拜」とある。日付は震災の前日、消印は前々日のものとなっている。


 通信面はまだ未就学児の末妹に向けた悪戯書きの類。(以下続稿)

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 昨日の記事について家人から訂正が入った。
 御機嫌伺いには2週に1度は行っており、その2回のうち1度の夕食の折に、私も招んでいたのだ、とのこと、また「バカヤロー」と言ったのは、入院した当座、トイレに矢鱈と行きたがってベッドから落ちそうになって危ないので、看護師を呼んでいる間、落ちないよう押さえ付けていたら件の発言と暴行に及んだとのことだった。
 それから、認知症の症状の出ていた祖母は、入院時に既に祖母宅のマンション名を言っても反応しなくなっており、長男の妻は事ある毎に、祖母を一度でも帰らせてあげたいと言っていたのだが、長男はどうせ分からないからとてそのまま地方の施設に連れて行ったのだ、と云うのである。どうもこの、長男の妻、すなわち義母の発言を度々家人に聞かされていたことに影響されて、記憶が捻じ曲がったものらしい。
 しかし改めて言われてみると、確かに当時もこんなことを聞いたような気がするのである。ただ、私は病院にも施設にも行っていない。地方から長男夫婦が祖母宅に泊まり込んで連日病院、それから施設に通っていたし、家人も、都内に住んでいる家人の妹もしばしば通っていた。誰かがいない日も滅多にないような按配で、その上、もう何も分からない、と言われてしまうと、2020年6月29日付「祖母の思ひ出(04)」の後半に回想した、私の母方の祖母とのことを思い出して、敢えて会いに行こうとは思わなかったのである。87歳で初対面の私のことなど実の息子夫婦や孫どころでなく分からなくなっているだろう。その後、施設で会ったときのことは前回書いた通りで、非常に機嫌良く会ってくれたが孫の夫だと分かっていたかどうか。家人は自分のことも分かっているのかどうか、と言っていて、その度に母親、すなわち長男の妻に「おばあちゃまは、分かっているよ」と主張されていたけれども。
 それはともかく、もちろん私の思い込みにもその素地となる要素はあるので、そこから何ともまぁ簡単にストーリーは煉り上げられてしまうのである。だから私は記録があればその記録をそのまま保存して置きたい。要約には既にして要約する人間の主観が入る。いや、体験者本人が要約しても、その主観による整理を免れないであろう。いや、当事者の記録であっても、個人的な記録はその個人が見て感じたことしか書けないはずである。その事象を全て俯瞰して書いたものではない。それだのに、その自分が見た一端を全体のことのように敷衍して述べてしまう嫌いがある。
 だから私は当ブログで全体を見渡している訳でもないのに当事者面をしている回想とその筆者を、根拠を挙げて批判して来た。しかし、お前も同じじゃないか、と言われると、同じなのである。間違うに決まっているのである。だから私たちには常に批判が必要なのである。偉い学者が、霊能者が、政府がこうだと言っているから、と垂れ流すようでは一時的に誤魔化せても長期的にはマイナスにしかならない。より確かな根拠による、合理的な批判が必要なのである。だから何も言うなと云っているのではない。むしろ、あやふやさこそが人間であり、そこに文学や藝術があると思うのである。再説しようと思っているが小沢信男の「わたしの赤マント」、『ぼくの東京全集』に再録されなかったのを本当に残念に思っている。ひょっとしたら当ブログで記憶違いを指摘したからではないかと思っている。――小沢氏は雑誌掲載時に加太こうじ『紙芝居昭和史』に拠っていた赤マント流言の時期について、単行本『東京百景』収録に際して『犯罪百話 昭和篇』編纂に際して知ったらしい正確な時期に直す改稿を行っていた。私は小沢氏が見たと主張していた(しかし東京朝日新聞の縮刷版からは見出せなかった)新聞記事を、讀賣新聞のデータベースに見出して、小沢氏の記憶違いを指摘したのである。私は元の記事の内容が記憶違いでも一向に構わないと思ったのだが、どうも小沢氏はそうは思わなかったらしい。『紙芝居昭和史』の1年のズレに引っ掛かったのとは意味合いが違うと思うのだけれども。
 私は『ぼくの東京全集』に『東京百景』巻頭作「わたしの赤マント」を再録しなかった理由を右のように推測するのであるが、違うかも知れない。しかし、幾つかの素地となる要素が絡み合って、ありもしない、けれどもありそうな記憶が出来上がったって良いではないか。それこそが、人間の興味深いところなのである*1。いや、そのまま載せたら当該記事について註か後記で当ブログに紹介・考証がなされていることに言及しないといけなくなってしまったが(だから載せなかったのか!)。

*1:私が怪談作家や怪談語り芸人を好まないのは、それを事実として取り扱うからである。そういう話が語られていることは興味深くても、事実は事実として確定させないといけない。それは、個人的な事実であってはいけない。個人的な体験は、体験したと本人が主張する以上否定のしようもないが、そんな万人と共有出来ないものは批判のしようがない。すなわち合理的に取り扱いようがないのである。