瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

祖母の遺品(02)

・若山家の関東大震災(1)
 祖母宅の仏間の硝子棚の上に、何やら書類が載せてあるのを見付けて下ろして見たのか何時のことだったろうか。
 ――祖母宅には、祖母が救急搬送されて入院、次いで施設に入って、その看護・介護のために上京して来た長男夫婦がしばらく泊まり込んでいた。しかし二重生活の負担が大きいので自宅近くの施設に移すことになった。それで祖母宅については、そのうち片付けに来るようなことを言っていたのだけれども、結局その後長男夫婦が祖母宅に泊まって荷物を改めるようなことは絶えてなかったのである。
 以後9年間空き家になっていた。祖母の長男の長女たる家人は、何かの折にすぐに祖母宅に駆け付けられるよう、同じ市内に転居してもう16年になる。私を連合いにしてからは20年である。祖母が元気だった頃は、月に1度は御機嫌伺い、毎週電話を掛けて安否の確認、そのとき頼まれ事があれば買って持って行ったり照明の交換等であれば私も同行して夕方に伺ったりした。空き家になってからは、郵便物の確認と、換気等のため週に1度は出掛けて行って、必要のある郵便物は転送、マンションの管理会社から水道や電気の点検のため在宅していて欲しいと云う連絡が入っていればその時間に祖母宅にいるようにして、時には私が代わりに祖母宅で電気の点検の応対をしたこともある。
 祖母は入院当座は妙なところに連れて来られたと不安と恐怖を覚えたのか「家に帰せ」と言って暴れ、宥めようとした長男を「バカヤロー」と言って殴ったそうだが、やがてそれも分からなくなり施設を我が家のように思い込んで、年末に私らが見舞いに行った折に、丁度時間だったので施設の若い女性職員が祖母におやつの蜜柑の寒天ゼリーを出したところ「この方たちにもお出しして」と言って、職員を戸惑わせたことがあった。すっかりお嬢様としてかしずかれていた女児時代の気分に戻って、職員のことを女中か何かのように心得て、そして普段見ない私らのことはお客だと思って、その遠来の客に何も出さないのに自分にはおやつを持って来る女中の鈍感さを窘めているらしいのであった。
 帰りたがっていると聞いていたときは、1度くらい連れて来ることもあろうかと思って敢えて手を着けなかったのだが、そんなことにもならず長男夫婦の暮らす地方都市に近い施設に移転して、もう戻って来ることもないとなると、いづれ片付けないといけないとは思うものの、長男夫婦がまた片付けに来ると言っていたことだし、私は祖母からすると義理の孫に過ぎないから余り差し出た真似も出来ないと、蔵書の処分やら、保存してあるであろう個人的な記念の品の数々が色々と気に懸かりながら、たまに家人に頼まれて祖母宅に郵便物を見に行ったりした折に、少し探ってみる程度のことしかしないまま、長い時間を空費してしまったのだった。
 そんな折に、冒頭に書いた書簡類を詰めた箱を2つ、仏間の硝子棚の上に見付けたのである。1つは戦地の夫から自分や長女に当てた軍事郵便の葉書が纏めてあり、そしてもう1つには関東大震災当時、朝鮮(現在の North Korea)にいた祖母の一家に宛てて、東京で中学校に通っていた3人の兄たちや、親戚等から送った封書や葉書を纏めてあった。しかし何分整理に時間が掛かりそうではあり、これまでそのままにして来たのだが、いよいよ祖母宅を売却することになったため7月に持ち帰ったのである。しかし、他に持ち帰った物も多々あるのでそのままにしてあったのだが、今日関東大震災から丁度100年めであることにちなんで、箱の一番端にあった、次の封書を写真で紹介することにした。
・若山津子宛大正十二年九月十九日付若山次郎書簡
 筆者は祖母の次兄の次郎(1909.7生)で当時満14歳、文中に登場する一彦(1907.12生)は長兄で満15歳、三津雄(1910.6生)は三兄で満13歳である。小学6年で中学(旧制)に進学していたとすればこの3兄弟、一彦は4年生、次郎は2年生、三津雄は1年生である。
 封書の津子(1888.3生)は祖母の母で、久枝(1913.10生)は長女、祖母文江(1915.10生)が次女、菊枝(1919.11生)は三女、この3姉妹は長女が小学4年生で次女が2年生、三女は未就学。

封筒と便箋(1組め)
封筒裏面と便箋(2組め)
便箋(1組め)1枚め
便箋(1組め)2枚め
便箋(1組め)3枚め
便箋(1組め)4枚め
便箋(1組め)4枚め裏面
便箋(2組め)1枚め
便箋(2組め)2枚め
便箋(2組め)3枚め
便箋(2組め)4枚め

 2組めは1枚めを最後にして巻四つ折にしてあった。この2組めは別便で送ったものを纏めたらしく思われる。
 さて、翻刻もしようと思うがこれは拡大すれば普通に読めると思うので今は写真だけにして置く。今後読みづらそうな草書、毛筆のものにも取り組まないといけない。今後の保管についても色々思うところがあるのだが、多少とも心得のある私でないと読んで内容を確かめようと云う者もあるまいから、しばらく手許に留めて、何年先になるか分からぬが当ブログで全容を報告したいと思っている。
 登場してくる他の人たちと、それぞれの関係などはこれから100通以上ありそうな書簡類を1通1通改め、そこから少しずつヒントを見付け出しながら探って行くことになる。まだ分からぬことだらけである。今はとにかく読むのに手間の掛からぬものから片付けて行こうと思っている。(以下続稿)