瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

閉じ込められた女子学生(28)

・「不思議な世界を考える会会報」(8)
 それでは、問題のある典拠について見て置きましょう。次いでに話の時期についても考えて見ることにします。
【D】典拠
②233頁下段6~8行め

20号(90年7月)●「ヤングの知っているこわい/話」(4)上田渡編 信州豊南女子短大(2)――/壁の爪あと(1) ‥‥


 本書の典拠は、2月1日付「『夢で田中にふりむくな』(4)」以下に確認したように、233〜235頁「話のもとになった資料」に列挙されています。この話はその1頁めに見えています。
③25頁16~17行め

(報告者は、長野の女子短期大学生。一九八六年、上田渡氏に提出したアンケート。上田渡編/「ヤングの知っているこわい話(4)」一九九〇年七月)


 本文のすぐ後に添えてあります。大学名が明らかにされていませんが②を参照することで、長野県上伊那郡辰野町の信州豊南女子短期大学と分かります。昭和58年(1983)設立で、平成12年(2000)に共学化して信州豊南短期大学と改称しています。その際に設立以来の2学科、国文科と英文科を統合して言語コミュニケーション学科としております。上田氏は現在、この言語コミュニケーション学科の教授で学科長を務めております。開学以来勤務しているのでしょうか。検索しても年齢が分からないのですが、「信州豊南女子短期大学」HPの「言語コミュニケーション学科」のページの「●学科長」或いは「●教員紹介」を見るに「國學院大學大学院文学科日本文学専攻博士課程後期満期退学」とありますから、大学院に5年以上在籍して30歳くらいで専任講師として就職したとして昭和20年代の後半(1950年代前半)の生れでしょうか。
 ③のみに見られる情報として、レポートの提出年が昭和61年(1986)とされていることが注目されます。昭和60年度の最後・昭和61年1~3月か、昭和61年度の4~12月なのか、それから1年生か2年生かで幅が出て来ますが、昭和60年度として1年生ならば昭和60年(1985)4月入学の3期生、2年生なら昭和59年(1984)4月入学の2期生になります。昭和61年度であれば3期生が2年生、昭和61年4月入学の4期生が1年生。
 短期大学に浪人して入学する人は殆どいないと思いますし、休学その他の事情があったとも考えないこととして、すなわち2期生は昭和40年度生、3期生は昭和41年度生、4期生は昭和42年度生と云うことになります。それが7月7日付(25)に見たように「高校一年生の時」と云うのですから、2期生は昭和56年(1981)高校入学、3期生は昭和57年(1982)、4期生は昭和58年(1983)入学の、その年に聞いたことになりましょう。
 地方の短期大学には、なかなか県外から進学しないと思うのですが、当時はどうだったのでしょうか。「信州豊南短期大学」のデジタルパンフレットに紹介されている、卒業生を含む33人の出身高校は、1人が新潟県(高田)の他は全て長野県です。41頁に「先輩の暮らし方」すなわち在校生の住居・通学等タイムスケジュールについて紹介して「学生の7割が自宅」「学生の1割がアパート」「学生の2割が寮生活」としています。辰野は長野県のほぼ中央に位置し、上伊那や諏訪、塩尻、松本辺りからも中央本線飯田線で電車通学出来そうです。それ以外の3割の学生も殆どが県内なのでしょう。当時も似たような感じだったと思うのですがどうでしょうか。
 これに、渡辺節子は次のようなコメントを附しています。すなわち26頁2~3行め、1行めは22字下げの桜花のマークで空けて、

 不幸な出来事はこの類話では細部まできっちり仕上げられており、大場久美子というその当時のア/イドルのポスターを使うことで信憑性を高めようとしている。

と、大場久美子(1960.1.6生)に注意しています。「この類話」と云うのは、7月7日付(25)に見たようにこの話は例話「壁の傷あと」に添えられた〔類話1〕なので、このように呼ばれている訳です。――私は大場氏のアイドル時代のことは、殆ど覚えておりません。TVドラマ『コメットさん』も、小学校低学年のときで、見たことがあるような記憶が微かにあるくらいです。

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『コメットさん』と同じ頃、アイドル歌手として活動していましたが、家族や近所にファンがいなかったので承知しておりません。しかし昭和50年代後半は大場氏も20代になって、ドアの爪痕を隠す役割を担うのが丁度良くなっていたのかも知れません。
④122頁12行め

(女子短期大学生/報告 常光徹


 本文に続いて、下寄せで小さく1行、このようにあります。巻末、227~235頁「話名および出典」を見るに、231頁10~11行め、上欄に「五十五 壁の爪あと」漢数字は半角、下欄に、

「不思議な世界を考える会会報」20 常光徹「ヤングの知って|いるこわい話」4 不思議な世界を考える会 一九九〇

とあります(やはり漢数字は半角)。
 本文から見て③と④は同じ話、②はその書き換えですが、何故か④のみ、報告者を常光徹としています。しかし、②③からして原資料は、上田氏が信州豊南女子短期大学で学生に書かせたレポートに違いないと思われるのですが、何故④は常光氏に変えたのでしょうか。或いは、上田氏が集めたレポートを、同じ大学の先輩に当たる常光氏(学部は違う)が預かって、そのまま整理を任されて、上田氏の名前で「不思議な世界を考える会会報」に載せたのでしょうか。
 少々不可解な変更として、注意して置くこととします。(以下続稿)