・青木純二の経歴(22)
昨日の続きで、山室清『横浜から新聞を創った人々』より青木純二に関連する記述を見て置こう。
まづ、青木氏が朝日新聞社から神奈川新聞社に移った事情であるが、252~253頁、7章め13節め「朝日新聞と「持分合同」」に拠ると戦時下、昭和20年(1945)4月1日の「新聞非常事態に関する暫定措置要綱」により、昭和17年(1942)2月1日に「一県一紙」で誕生した「神奈川新聞」は、朝日新聞と「持分合同」することになり、「朝日新聞」の紙名で発行されることになる。――これが云って見れば伏線である。
この朝日新聞への「持分合同」が解消されるのは昭和20年11月1日(262~263頁、8章め2節め「神奈川新聞、ようやく復刊」)。しかし、朝日新聞社に疎開中の余剰輪転機の貸与を受ける(264~265頁、8章め3節め「蒔田の疎開工場で編集、発行」)など、関係は続き、268~269頁、8章め5節め「神奈川と朝日の資本提携」の節に、268頁上段11行め~下段4行め、
‥/‥、社長だった村山長挙お声がかりによる神奈/川新聞再建新出発への朝日支援の話は支障なく/進んだ。話は単なる輪転機の貸借にとどまらず、/朝日側の事情もあって同社からの人員派遣を伴/う本格的な資本提携となる。
神奈川・朝日両社の資本提携は昭和二十一/(一九四六)年一月十五日調印される。その要/点は①資本金三十万円とし両者の出資とする②/神奈川新聞本社は横浜市中区尾上町の朝日ビル/【上段】を賃貸し、隣接地に約三百三十平方㍍の工場を/建設する③高速輪転印刷機一台を朝日から賃貸/する④朝日から必要人員を転出させる―という/もの。
とあって、青木純二はこのとき「必要人員」として、朝日新聞「社からの人員派遣」で神奈川新聞社に移ったのである。268頁下段12~13行め「 この新生神奈川新聞社の正式発足は同年二月/一日である。‥‥」。尤も、この辺りのことは2019年10月28日付(142)に見た、同じ山室氏が執筆した横浜市中央図書館開館記念誌編集委員会 編集『横浜市中央図書館開館記念誌 横浜の本と文化』202頁上段3行め~下段16行め「神奈川新聞の誕生」の項に、もっと簡潔に述べてあったのだが、そこでは青木氏が朝日新聞社から移籍したことを特に断っていなかったので、そのまま読み飛ばしてしまったのである。
さらに270~271頁、8章め6節め「バラック新聞社の苦闘」の節に、270頁下段4行め~271頁下段、
新生神奈川新聞は、横浜市中区尾上町の朝日/ビルに本拠を置いたものの、当初は引き続き南/区宮元町の協力工場井上印刷所と蒔田の山の根/の疎開工場で編集、印刷された。朝日から来て/編集副部長となり、やがて文化部長となる青木/純二は、一年後の神奈川新聞社報に、着任時の/驚きを次のように書いている。
バラック建ての、薄暗い、混乱した小さな/工場をみたとき、私は驚きあきれた。これで/も日刊新聞ができるのかと驚嘆もした。けれ/どもさらに驚き敬服したことは寒さ身にしみ/るこの工場で、印刷部の人々が少数で働きつ/づけている真剣な姿であった。(後略)
編集局は井上印刷の焼け残りの木造家屋の一/室。この畳敷に “お女郎屋の帳場みたい” な机/が置かれ、後に整理部長となる清水省之輔(神/奈川)がたった一人で、ペラ一、二面の編集を/【270】している。 “お女郎屋の帳場” 越しに、清水が/たばこの煙といっしょに手渡す原稿を連絡係の/少年が土間から受け取って、二、三百㍍離れた/山の根の疎開工場へ駆けてゆく。
青木は、デスク業務の傍ら、「青葉茂」のペ/ンネームで「新ヨコハマ早春譜のスケッチ」を/連載し、新生の紙面に花を添えた。続いて彼は/「黒船交友秘譚*1」(一三〇回)、「横浜開港女の風/俗」(第七話「高橋お伝」まで八一回)と、腕/に覚えの筆を振るっている。
ペラ新聞の一面下段を飾るこの青葉茂の連載/読物は好評だった。悪夢のような戦況報道や戦/意高揚記事に翻ろうされてきた読者たちは、初/体験の占領下ではあるが、立ち戻った平和の中/であらためて、横浜開港や明治維新時代に思い/をはせるのだった。
もっとも、初めのうちは、つぶれた活字や誤/植の多さで、青木は「毎朝、新聞を見るのがユ/ーウツだった」が、それも次第に改善されてゆ/き、最後には社長特賞をもらった。【271】
とあって、社報の引用は1字下げ。271頁上段は図版で、左側にゴシック体縦組みのキャプション「焼け残り民家8畳間の編集局(神奈川新聞社報の回 /想画)と、評判を呼んだ青葉茂「横浜開港女の風俗」」があって、上に「八疊編集局」の戯画、下に「〈横濱/開港〉女の風俗」のタイトルロゴがあってその下に横並びで「(62)」次いで「青 葉 茂 作/北 川 無 彩 画」とあって、2段組の上段冒頭に「 (第六話)/初菊役者(11)」とあり、中央上寄せの挿絵の左側は殆ど省かれている。――この節は、青木氏が主役である。
青木氏が青葉茂の筆名で「黒船交友秘譚」と「横浜開港女の風俗」を長期連載したことは『横浜市中央図書館開館記念誌 横浜の本と文化』にも述べてあり、昭和21年(1946)2月24日付「神奈川新聞」掲載の、前者の第1回の複写も掲出されていたけれども、本書によって青木氏の「神奈川新聞」での連載はさらに遡って、正式移籍直後から始まっていたらしいことが分かる。(以下続稿)