・何故柳田國男は序文を書いたのか
昨日まで検討して来た青木氏の経歴については、まだ昭和30年(1955)までの続きがあり、かつ「神奈川新聞」に訃報くらいは出ているだろうと思うのだが、それは年内に閲覧・確認の機会を作ることにして、今回は昨日までの検討結果も踏まえつつ、柳田氏の序文の問題に戻ろうと思う。
遠田勝『〈転生〉する物語――小泉八雲「怪談」の世界』では本書について、まづ、「一 白馬岳の雪女伝説」の4節め、24頁6行め~28頁10行め「『山の伝説』」の26頁10~14行めに、
青木純二の『山の伝説 日本アルプス篇』は丁未出版から刊行された三〇〇頁を超える大著であ/る。『遠野物語』から『山の人生』へと山岳地方の文化と伝承に特別な関心を寄せていた柳田国男/が一二頁もの期待をこめた序文を寄せていることからも察せられるように、日本アルプス一帯を扱/う山の伝説集としては先駆的なもので、民俗学や地方誌の分野で今なお評価が高く、近年、復刻版/が二度にわたり出版されている。*1
とするのだが、8月11日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(098)」に引いた一節からも察せられるように、巻頭の柳田國男の「山と傳説」は、序文に当たる文章であるのに本書を評価していない。柳田氏は多くの本に序文を書いており(私はその何分の一も目を通していないが)大抵は、著者との関わりについて述べ、さらに内容の注目すべき点を幾つか取り上げて簡単に論じたりするものだが、本書の場合、著者との関わりには全く及ばず、あるべき伝説集についての注文を出すばかりで本書の内容そのものには触れるところがないのである。
遠田氏も柳田氏が序文を書いていること、後続の伝説集や地方誌に利用されていること、覆刻版(大空社)復刻版(一草舎出版)が刊行されていることから、本書が高く評価されていると述べてみたものの、検討を重ねるうちに不安になった(?)らしく、本書に載る「雪女」を小泉八雲「雪女」からの捏造であると断定した6節め、30頁13行め~32頁10行め「バレット文庫の「雪女」草稿」で最後の段落で、32頁8~10行め、
しかし、それにしても青木は、柳田国男の序文までもらいながら(これは改めて読み返すと、こ/うした青木の悪癖への警告を含んでいるようにも思えるけれども)、なぜ、こんなことをしたのだ/ろうか。いや、そもそも青木とはどのような人物なのか。
と前置きして、10月18日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(133)」に引いた7節め「いたずら者の青木記者」に、青木氏の経歴を紹介するのである。
さて、8月11日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(098)」に述べたように、面識もなく内容的にも何ら評価すべきポイントのない青木氏の著書に何故柳田氏が序文を与えたのか、それは義理で書かされたとしか思えないのだが、その理由はそんなに推測が難しいものとは思われない。
すなわち、柳田氏は大正9年(1920)に朝日新聞社の客員になり、大正11年(1922)より昭和5年(1930)に辞任するまで論説委員(初め論説班員)として社説を執筆していた。昭和22年(1947)まで客員、その後は社友であった。
青木氏が具体的にどのような運動をしたのか、それは分からないが、東京朝日新聞社入社に当たって世話になった役員にでも頼んで、柳田氏に序文執筆を依頼したのではないか。これは想像を逞しくし過ぎているとの謗りを受けそうであるが、そうでもないと面識も交流もない、内容的にも評価のしようのない本書に序文を書く義理など、柳田氏にはありようがない。いづれにせよ朝日新聞社の関係から序文を書かせることが出来たのであろう。
青木氏が横浜の芸界に深く関わって、新聞界から退いた後に芸能社の社長になり、各種団体の顧問も務めていたことを知って改めてこの件を眺めるに、青木氏には人脈を構築してステップアップしていく才能があったようで、このような運動も然して困難なことであったとは思われないのである。(以下続稿)
*1:ルビ「ていび」。