・中村四郎さんの話(4)
昨日の続き。
【5】あの老婆は死神か(27頁1行め~31頁8行め)
この話については2020年9月30日付「中学時代のノート(22)」に検討した。「六年ほど前」と云うので昭和43年(1968)かその前年のことらしいと考えたのだが、これもやはり確証が持てない。と云うのも、次の話の書き出しが妙だからである。
【6】雨の墓地で濡れていた女(31頁9行め~35頁9行め)
書き出し、と云うか語り出し、31頁10~15行め、
それから、だいぶ月日がとんで、昭和四十年の春……。
あの有名な霊能者、萩原真氏は、「星は夜しか人の目にうつらないが、昼だって、星は出てい/る」といいましたが……私は、昼日中、二度も幽霊を見ています。
それは、昭和四十年の春のこと……桜がさいているころでした。
わたしは、杉並区堀の内に住んでいましたので、高円寺駅に出るたびに、近道をして、堀の内/の火葬場の前を通るのでした。
杉並区堀ノ内の最寄り駅は営団地下鉄荻窪線(東京メトロ丸ノ内線)の新高円寺駅もしくは方南町駅だが、国鉄(JR東日本)中央線を利用する際は高円寺駅を利用して、堀ノ内斎場の前を通っていたようだ。
ちょっと気になるのは、昭和40年(1965)とすれば「六年ほど前」の【5】よりも前の話のはずだのに「だいぶ月日がとんで」としていることで、これも録音が聞き取りづらくて「六年ほど前」は実は「十六年」だったりしないかと思ったりするのである。
萩原真については、月刊「ムー」の公式サイト「ムーPLUS」に、不二龍彦「千鳥会の霊能者・萩原真と道院・紅卍字会の秘儀」なる記事が2020年9月17日に上がっているが、有料部分は読んでいない。
煙るように春雨の降る夕方、火葬場の前庭に美しい婦人が立っているのを目撃するのだが、数秒後にもう一度見ると消えていた、と云うもので、似たような話は私も兵庫県立高等学校時代に友人の友人で密教にかぶれていた男に聞いたことがある。いや、私自身も横浜市での中学生時代に覚えがあるのだが、しかし私のは2015年12月28日付「講談社別館の幽霊(3)」の註に述べたように何かの見間違いだろう。
この美人を目撃した話は33頁4行めまでで、1行分空けて5行めからが「二度」めの目撃例である。11行めまでを抜いて置こう。
こんなことがあってから、また、数年後のこと、こんどの経験は、妙法寺の墓地での出来事で/す。
堀の内のお祖師様で有名な妙法寺には、付属の広い広い墓地があります*1。
その墓地をぬけていくと、家へ帰るのに、便利なので、私はいつも、そこを通りぬけていくの/でした。
その年(昭和四十三年?)の六月で、梅雨どきのこと、雨がしとしと降っておりました。
やはり、夕方でした。
このとき会った(?)のは34頁5行め「大そう不機嫌そうな顔」の「七十歳くらいにみえる老人」で、2行め「左手の方、十メートルぐらいのところに……お墓のあいだ」に見え、8行め「五メートルぐらいに縮まったとたん、パッ! と」消える。この件には一応落ちがあって、34頁16行め~35頁1行め、
それからまもなく、墓地の一角は取り払われて、そのあとに八階建のマンションが建ってしま/【34】いました。
と云うのである。これをヒントにすれば、このマンションは容易に特定可能である。住人も位置からして由来が分かっているだろう。だからと云ってネットに名称を書き込む訳には行かないけれども。――今「日本最大級の不動産・住宅情報サイト ライフルホームズ」のサイトで検索するに、「築年月」は「1972年8月」である。そうするとこの話の起きた「その年(昭和四十三年?)」とは、恐らく平野氏に拠る註記とは異なり、昭和47年(1972)8月の前年、昭和46年(1971)と思われる。
私はこの年代考証(?)で間違いないと思うのだけれども、実は平野氏の註記にも根拠があるので、これについては、次回【9】について確認するとき、述べることとしよう。(以下続稿)