・中村四郎さんの話(5)
昨日の続き。
【7】わたしが人魂になって飛んでいる(35頁10行め~36頁15行め)
これは冒頭を確認して置けば良いだろう。35頁11~14行め、
それから、私は、青春時代……そう、二十三歳のころ、とてもへんてこな夢をみています……。/きのうのことのように、はっきりとおぼえているのです。
そのころ、わたしは、牛込喜久井町の兄の家に寄寓しておりました。
そして、それは、冬の夜のことでした。【35】
中村氏は大正5年(1916)生だから、満23歳の「冬」とすれば、昭和14年(1939)から昭和15年(1940)に掛けてのことになる。この「牛込喜久井町の兄の家」はすなわち、2月20日付(03)に見た【3】に見えた「早稲田の姉の家」であろう。
【8】夢物語?(37頁1行め~41頁2行め)
これは冒頭から見て置こう。37頁2~5行め、
これも、おもえば変てこな話ですけれど、決して嘘でもなければ夢物語でもございません。
それは、昭和四十年の秋のことでした。
私が夢の中で、広い広い墓地の中を歩いていたのです。
それは、どうも、堀之内の妙法寺境内に近い、墓所のようでした。
その夢の中で中村氏は、この世の者とは思われない老僧に追いかけられ、13行め、「待て! 寺の物を盗んではいけない。さ、すぐ返しなさい」と怒られる。しかし、自分には6行め「見に覚えのないことで、てんで見当もつかない」。そこでその小言の最後に、38頁3行め「墓のものを持ち出すなんて!」と言われたことをヒントに、9行め「妙法寺のすぐちかく」の、7~8行め「兄貴の家のことをいっていたのじゃないかな……と、思いつき、いそいで兄/の家に行ってみる」。14行め「根っからの茶人趣味」の兄は「庭に」も凝っているのだが、12行め「ついぞこれまで見た事もない石灯籠」があるのに気付く。39頁6行め「うちの近くの石屋がもってきたもので、まだ金は払っていない」と言うのを聞いて、8~11行め
「うん……どうもおかしいんだ。これは、妙法寺の墓地にあったものにちがいないよ。お墓が無/縁仏になって、とりはらう時、これも一緒に石屋が持ち出したものにちがいないよ。よく洗っ/て、苔をおとして、知らん顔して売りに来たものにちがいない。こんなものをおくと、病人が出/たり、たたりがあったりして、こまるよ。気をつけないと大変だよ」
と警告すると、姉が兄の眼が急に悪くなって、順天堂の眼科に通っている、と言うので昨夜の夢の話をすると姉は早速石屋に事情を確かめに行く。すると石屋の女将は、40頁6~7行め「奥さんのおっしゃる通りで、これを店においてあった時は、何か気味わるくて、病人は出る/し、いやな夢は見るし……ですから、わるい事ですけれど、お宅に押し付けてしまったのです」云々と平身低頭して謝って、石灯籠を引き取ってお寺に返すことを約束する。41頁1~2行め「兄の眼/は、一ヵ月たたずに直りました」。
どうも、義兄は戦後、杉並区堀ノ内に移って【4】に推測したように昭和33年(推定)歿の母と同居し、中村氏も【1】昭和23年(1948)に住んでいた仙台から東京に戻って杉並区堀ノ内に住んだようである。そしてそのまま堀ノ内に住んでいるように思われるのだが、【6】に見たように疑問もある。このことについては次の【9】にて確認しよう。
【9】またもや夢の知らせ(42頁3行め~43頁5行め)
42頁7~10行め、【1】に登場した義父の再登場である。
仙台の妻の父が亡くなったのは、昭和四十四年の五月のことですが、私が明け方に義父の夢を/はっきりとみたのも、そのときでした。
わたしが埼玉県新座市に家を買って、ぜひ一度きてくださいと、たよりをして間もなく義父は/病床に臥せるようになったのです。
妻子は相手にしなかったが、42頁7行め、夢に見てから「三日めの朝、チチキトクのウナ電」を受けて妻を飛行機で仙台に行かせ臨終に立ち会わせ、自分は息子と汽車で駆け付けている。そして義母に12行め「三日前から急に病いが重くなっ/て、意識がもうろうとしてきた」ことを確かめている。43頁2行め「 父は七十二歳で心臓病で亡くなったのです。」――昭和44年(1969)5月に満72歳とすると明治26年(1896)5月から明治27年(1897)5月までの生まれ、【1】の当時には50過ぎであった。
【6】に平野氏が「その年(昭和四十三年?)」としたのは、ここの記述からして中村氏は昭和44年に新座市に移ったはずなので【6】に昭和43年6月と推定したのである。実際、どうだったのかよく分からないのだが、しかし2020年9月29日付「中学時代のノート(21)」に引いた、この「中村四郎氏の話」を含む「二人の訪問客」の節の前置きに、14頁1行め「杉並に住む中村四郎さん、五十年配の、ほっそりした紳士で」とあって、中村氏は杉並から松戸の平野氏宅を訪ねたことになっている。【6】のマンションの築年月からしても、新座には結局転居しなかったのであろう。ちなみに昭和48年(1973)当時、中村氏は57歳である。
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以上で「中村四郎氏の話」の検討を終える。テープ起こしの際の間違いがあるようで、平野氏には校正刷の点検を中村氏本人に依頼して欲しかったところである。しかしながら、目的とする話だけでなく、条件を同じくする話群も引っくるめて検討することで、遺された疑問箇所を多少なりとも明らかに出来たと思う。特に生年の確定が重要である。――やはり、当該箇所だけを見てはいけないので、他にも材料が得られるのであれば、念のためそこまで見て置くべきなのである。(以下続稿)