瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

能美金之助『江戸ッ子百話』(5)

 昨日の続きで鶴見俊輔不定形の思想』の「小さな雑誌」について。――「思想の科学」が中央公論社から刊行されていたのは昭和34年(1959)から昭和36年(1961)までの3年間である。本書『上』1~2頁、鶴見俊輔「『江戸ッ子百話』の読者として」に「それから十年たって」とあったから、昭和46年(1971)7月の「時代」創刊号からちょうど10年前の昭和36年から当たって見ることにした。
 252頁下段15行め、前を2行分空けて2字下げで「一九六一年八月」とあって、16行めから255頁上段18行めまで、この月の「日本の地下水」の鶴見氏担当分は全て「江戸っ子百話」に充てられている。冒頭を抜いて見よう。252頁下段16行め~253頁上段2行め、

『江戸っ子百話』(ガリ版荒川区尾久町二の四五一江戸っ子東魂会趣味部、会費は年五十円) は、昭和二十六年に会員三十五/人くらいではじめられ、昭和三十六年六月までに、会員百/人に支持されつつ第四十話までを発行した。会長の能美金/之助は、明治十八年生まれで七十六歳。この人が古い江戸/【252】の各地区をまわって話を集めてきては、原稿を書き、ガリ/版をきり、雑誌をつくって、発送している。


 これを2月25日付(1)に引いた本書『上』鶴見俊輔「『江戸ッ子百話』の読者として」と比較して見ると、諒解し易くなった箇所とともに理解しづらくなった箇所も出て来る。
 鶴見氏は『上』では、この「ガリ版の雑誌をはじめて読んだのは、今から十二年前」とする。末尾に「1972.8.26」とあるから昭和35年(1960)と云うことになる。そうすると「日本の地下水」に書くまで丸1年寝かせて置いたのか、と云う疑問が湧く。2月26日付(2)に示した『上』の細目を見るに、昭和35年発行分は第三十五話から第三十八話までだから『上』にて鶴見氏が「三十いくつか目になっていたくらいだろうか」と云うのは合っている。しかし、この書き方からすると、鶴見氏は「『江戸ッ子百話』の読者として」執筆に際して、「日本の地下水」を参照していないらしいのである。
 尤も、『上』の各話末に示されている年時を見る限りでは、昭和36年(1961)6月には第四十話と第四十一話が発行されているはずだから、「日本の地下水」の書き方も少々不審ではある。或いは、中央公論社の橋本進が荒川区尾久に能美氏を訪ねたのが昭和36年6月で、第四十話発行直後、第四十一話発行直前だったのだろうか。まぁそこまで辻褄合せをする必要もあるまいが、一応考えるだけは考えて置きたいのである(或いは、複数が同じ月になっている場合は、1冊に複数話を抱き合わせて掲出していたのだろうか。そして鶴見氏は最新号の1頁めに「第四十話」とあるのを見て、大体の号は1冊に1話だから「第四十一話」を数え忘れ、うっかり「第四十話まで」としてしまったのであろうか)。
 いや、発行日と云えば「日本の地下水」で「江戸っ子百話」について「昭和二十六年会員三十五人くらいではじめられ」としているところが、もっと気になる。――第一話は「昭和31年5月9日」付なのである。昭和31年(1956)は明治18年(1885)生の能美氏の年齢(71歳)からして、『上』扉裏の自序に当たる文章で「東京に生活七十余年」と云っていることに、合うのである。そうすると昭和26年(1951)と云うのは、江戸っ子東魂会の発足時期なのだろうか。『上』に拠れば鶴見氏は、橋本氏が「そのころまでの全巻そろいを借りてき」たのを参照しながら執筆しているはずなので、どうも解せない記述である。
 そこで第四十話までを改めて眺めてみるに、第十七話の冒頭近く、58頁5~6行めに、

 昭和二十八年春期であった。吾人ら、東京生れの者の会、江戸ッ子東魂会は創立二年後に、東海道/五十三次徒歩旅行を思い立った。‥‥

とあり、さらに第十九話の末尾近く、67頁4~6行めに、

 さてまた、尾久二丁目に昭和二十六年に江戸ッ子東魂会創立され、右会員は皆、東京旧十五区生れ/の真の江戸ッ子百人ほどにて結束し、江戸ッ子三百年来の伝統の正義観念の精神を守るを本旨とする。/その江戸ッ子会のうち、旅行部三十名にて東海道徒歩旅行を、‥‥

とあって、やはり会の創立時期なのであった。そして昭和28年(1953)に旅行部が東海道徒歩旅行を企画、昭和31年(1956)に趣味部を作って会誌「江戸っ子百話」の刊行を始めたもののようである。(以下続稿)