瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

小松左京『やぶれかぶれ青春記』(6)

・諸本対照(2)
 ついでに旺文社文庫小松左京全集完全版34に附載されている、小松氏の友人たちの文章についても、章立てを見て置こう。――旺文社文庫は著者を良く知っている親類縁者や知友に、文章や談話を依頼していることが有難い。④がこれを採録したのは適切な判断と云えよう。
 ①の見出しはゴシック体2字下げ。写真が挿入されているが④には引き継がれていない。キャプションは下辺の下、中央揃え。
 ④の本文は2段組だったが、以下の文章は段組なしで、見出しはやや大きい明朝体、3行取り2字下げ、本文と違って上に横線はない。
國 弘 正 雄*1「解   説/――若い読者諸君に*2
現代の百科全書派
  ①197頁3行め~203頁6行め、写真《1》199頁「著 者 近 影」
  ④410頁3行め~416頁6行め
戦争体験と小松左京
  ①203頁7行め~206頁4行め
  ④416頁6行め~419頁15行め
神戸一中時代の小松左京
  ①206頁5行め~211頁2行め、写真《2》208頁右上「神戸一中時代の小松左京(左)」
  ④420~425頁8行め
小松左京の行動原理
  ①211頁3行め~212頁3行め
  ④425頁9行め~426頁15行め
 ①は2行分空けて212頁4~8行めに、9字半下げで小さく、

筆者――昭和五年、東京生まれ。国際商科大学教授(文化人類学)。 NHKテレビ/  の「トーク・ショー」で英語によるインタヴューを担当。同時通訳の草分けと/  しても知られるが、最近ではアメリカその他への講演旅行をしばしば試み、一/  昨年はニューヨークの外交問題評議会の招きで講演。著訳書多数。毎日新聞な/  どによれば、三木新首相のキッシンジャー役をつとめる。外務省参与。

とある。三木内閣の発足は昭和49年(1974)12月9日で①並製本初刊の2ヶ月前。
 ④は末尾426頁16行めに3月31日付(3)に記したように出典として①を註記。
高 島 忠 夫*3「神戸一中時代の小松左京と私」
  ①213~216頁12行め
  ④427~431頁4行め
 ①216頁13行めに下詰めで小さく「(一九七四年十一月五日 談)  」、2行分空けて216頁14~15行めに、11字下げで小さく、

筆者――映画俳優。昭和五年、兵庫県生まれ。関西学院大学中退。俳優だけで/  なく、ミュージカル、テレビの司会などはば広く活躍。

とある。刊行の約3ヶ月前の談話である。
 ④431頁5行め下詰め、やや小さく「(一九七四年十一月五日談)」とあり、末尾6行めに3月31日付(3)に記したように出典として①を註記。
 神戸一中の後身・兵庫県立神戸高等学校には、知った人もいなかったし行ったこともないのだが、私も僅かながら関わりはあって、2017年4月3日付「山岳部の思ひ出(6)」に回想した、山岳部のインターハイ兵庫県予選で、私の参加した昭和62年(1987)と昭和63年(1988)の2回とも、1位は神戸高校山岳部だったのである。しかし1次予選も通過出来なかった私たちには、お近付きになる機会すら与えられなかったのだった。――私の通っていた高校及び市内の別の高校の山岳部・ワンダーフォーゲル部のレベルは、2020年1月5日付「在阪ラジオ局の思ひ出(3)」の冒頭に回想したような按配だったから、歯牙にも掛けられなかったろう。
 なお、④には再録されなかった、田 辺 聖 子*4小松左京サンについて」は①217~223頁8行め、2行分空けて9~10行めに、11字下げで小さく、

筆者――作家。昭和三年大阪生まれ。樟蔭女専国文卒。著書「花狩」「感/  傷旅行」他多数。

とある。
 なお、本書は旧制高校時代の漫画家としての活動に触れていないが、その点は⑤新潮文庫版の小松実盛(1963.10生)「「青春記」に書かれなかったこと――漫画家としての小松左京」に詳しい。ただ、それまでの版に全くその記述がなかったかと云うと、國弘正雄「解説/――若い読者諸君に」の「神戸一中時代の小松左京」に、少々ぼんやりしているが、小松氏がプロ並みの漫画を描いていたとの記述があるのである。
 ①207頁12行め~208頁7行め④421頁13行め~422頁8行め、

 彼はまた漫画の才能を豊かにもっていた。授業中にときおり彼の方向から、彼の創作\になる漫画/がまわってくる。何しろ色気づきはじめのころだから、題材というのは大体\があぶな絵――といっ/ても若い諸君にはピンとは来まい。小松の親切さにならって注釈\を加えると、つまりは、*5エロ画――/に類するものである。あやうく教師にみつけられそこ\なって、紙ごと呑んじまったという猛者もい/たほどだった。さいきんサトウ・サンペイ氏*6\とテレビで一緒になり、小松はなぜ漫画家にならなか/ったんでしょうね、と噂をしたら、\【④421】この当代一流の漫画家はかつて関西時代に彼が作品をもってあ/らわれたことがある、と\言っておられた。ただ、彼の名誉にかけて、あぶな絵の話はしなかった。
(ヤイ、ウカレ、ありがたく思うとれよ)【①207】
 漫画自体だけでなく、その案というか筋も、横につけ/た解説もみな彼の頭から出たもの\だった。とにかく、往/くとして可ならざるところなしというのか、いろいろな/才能を兼ね\備えた御仁で、ああいう奴にはこちらは逆立*7/しても敵いっこない。去年もある版元の企\画で月に一回/ぐらい会って四五人で雑談したが、その思いを強くさせ/られるばかりだっ\た。


 「さいきん」は昭和49年(1974)であろうが、この頃のTV番組は保存されていないものが殆どなので、仮に新聞の番組表を見て行って番組を突き止められたとしても内容の確認までは出来ないだろう。番組内での会話ではないかも知れないし。しかし「なぜ漫画家にならなかったんでしょうね」とは、その才能の有無について両氏の間に共通の認識があったことになる。
 國弘正雄とサトウサンペイはその後、共著で本を出している。

 サトウサンペイ(1929.9.11生)は國弘氏と小松氏の1学年上、昭和28年(1953)に大丸社員との兼業でデビュー、昭和32年(1957)大丸を退社して漫画家専業に、昭和36年(1961)東京に移っている。すなわち漫画家サトウ氏の関西時代はこの8年間、小松氏の作家デビュー前、京都大学文学部イタリア文学科を卒業して雑誌記者や父の仕事の手伝い、漫才の台本書きなどをしていた時期で、或いは漫画家の途も模索してサトウ氏を訪ねたのかも知れない。(以下続稿)

*1:ルビ「くに ひろ まさ お」。

*2:④は「解説」なし、姓名間1字空け。

*3:ルビ「たか しま ただ お」。

*4:ルビ「た なべ せい こ」。

*5:④はこの2箇所の読点全角。

*6:④「・」なし。

*7:④「逆立ち」。