瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

畑中幸子『南太平洋の環礁にて』(5)

北杜夫『南太平洋ひるね旅』との関連(2)
 『南太平洋ひるね旅』との関連と題して見ましたが、一応関連はしますが『南太平洋ひるね旅』に書かれなかったことの確認です。――既に2020年12月5日付(4)の段階で書くことは決まっていて、引用すべき箇所の見当も付けてあったのですが、何となくそのままになっていました。
 『南太平洋ひるね旅』に書かれなかったこと、と云うのは、2020年11月1日付「赤いマント(294)」に引いた、ブラジルの日本語日刊新聞「ニッケイ新聞」のサイト「ニッケイ新聞WEB」の2007年6月27日付「作家・北杜夫さんと独占インタビュー=ブラジル日本移民を書いた長編小説『輝ける碧き空の下で』=2回訪伯=日系人と心温まる交流=訪伯時のエピソードきく」で、北氏は

 タヒチに渡りましたら、タヒチの近郊の島での鉱山で働いた移民の子孫が二人、中心都市のパペーテにいまして、ちょうど人類学者の畑中幸子さんという若い女性の大学院の学生が残っていまして、彼女から島にはまだ他にも移民がいるらしいと聞いて、レンタカーを借りてタヒチを一周したんです。ようやく一人を見つけたんですけど、‥‥

と語っているのだけれども、『南太平洋ひるね旅』の、畑中氏とのタヒチ島タヒチ・ヌイ)一周ドライブの件を読んでも、移民に会ったことはもちろん、移民を探したことすら書いていないのです。ですから記憶違いではなかろうか、と思ったのですが、その後、少し探索の範囲を広げて見るに、2020年12月12日付「北杜夫『マンボウ響躁曲』(5)」に匂わせたように、記憶違いではなく、確かにこのインタビュー通りの体験をして、書くのは止めにしたらしいことが分かって来たのです。
 その後、『マンボウ響躁曲』から数年後の、奥野健男北杜夫の文学世界』の中公文庫版刊行に際して増補された『輝ける碧き空の下で』に関する奥野氏・北氏の対談に、3月17日付「奥野健男『北杜夫の文学世界』(6)」に引いたように「ニッケイ新聞」のインタビューと同じようなことを述べていたことを知りました。
 どうも、北氏の発言や記述には怪しげなところが少なからずあるのですが、この件については、敢えて書かなかったとの理解で良いように思われます。
 それはともかく、ここで、順序が前後しましたので今更の感もありますが、畑中氏の著書『南太平洋の環礁にて』から北氏の『北杜夫の文学世界』や「ニッケイ新聞」での発言の裏付けになりそうな記述を見て置こうと思うのです、
 そうは云っても、畑中氏は2020年12月5日付(4)に断ったように北氏に会ったことを書いていません。パペーテ滞在中に世話になった清野老人や、北氏に引き合わせた郵便局勤務の紺野老人についても、本文中には名前が出て来ないのです。両氏の名前は、僅かに219~222頁「あとがき」の末尾、222頁4~11行め、謝辞を連ねた2段落の1段落めに、4~8行め、

 プカルアの人びとにそしてド・アゴスチーニ夫妻(Mr. & Mrs. De Agostini)、オチノー博士(Dr. Ottino)、/タヒチ在住の紺野氏、清野氏、百々氏、タヒチ人のシュミット氏(Mr. Schmidt)、アリイタイ氏(Mr. /Ariitai)ら、協力と援助を惜しまなかった方々に心から感謝の気持ちをあらためておくると共にこの調査/のきっかけを与えて下さった大阪市立大学医学部、調査費を援助していただいた米国東西文化センターに/厚く御礼申し上げます。

と見えるばかりです。いえ、ここに未知の「百々氏」が登場するのです。私は、北氏と畑中氏がタヒチ・ヌイ一周ドライブの際に尋ね当てて面会したのは百々氏だろうと思っているのですが、それについては明後日見ることにして、その前に明日は、畑中氏の「調査のきっかけ」が「大阪市立大学医学部」によって「与え」られた、とする記述について確認して置きましょう*1。(以下続稿)

*1:4月20日追記】確認作業を諸々続けるうち、予定を変更したので見せ消ちにした。【4月21日追記】「が、それについては」以下全部を見せ消ちにしていたのだが、さらに予定を変更したので一部見せ消ちを外した。