・池内紀の居住歴(7)東京
一昨日昨日と前置きが長くなりましたが、どうも、池内氏の書いていることには一貫性と云うか、整合性がないのです。
いえ、政治的立場や思想的な一貫性と云うことではなくてほんの瑣事です。しかしながら、細かいところが食い違うと云うのも、それこそ『池内紀伝』を準備しようと云う場合には、本当に困るのです。
すなわち、6月25日付(5)の冒頭で、普通は同じ人が同じことについて記述した2冊の本を比べれば、その事柄がより鮮明になって行く、と云う風に期待するものですけれども、池内氏の本ではそうなっていない(ことが多いらしい)、と云ったことを述べました。繁簡精粗の違いなどと云うものではなくて、明らかに矛盾しているのです。そこで3冊め、4冊めと借りてみましたが、内容が整理されるどころか、いよいよ訳が分からなくなってしまうのです。――いえ、執筆順に並べればそれなりに整合性は取れているのかも知れませんが。
池内氏の著述を点検し始め『ヒトラーの時代』炎上について知った当初、私は、池内氏に秘書のような立場で、原稿の入力や点検を引き受ける専属の人物がいれば、炎上と云う事態は避けられたのではないか、と思ったりしたのです。けれども、そうするとあの執筆量を誇ることは出来なくなったでしょう。これまでも、おかしなところ、以前書いたところと違うところ、――回りくどい言い方は止して思い切って〝事実誤認〟と纏めてしまいましょう、そういうところがあったのに、当人も編集者も読者もそこを詰めずに、エッセイストの書くエッセイと云うことでそのままにして来た。こうした緩さがあっても水準以上の文章になっていて、編集者も読者もそのつもりで読んでいましたから、これまで問題にならず、池内氏本人もその生活リズムで大学教員退職から20年以上になる執筆活動を、順調に継続して来れたのでしょう。
元より私は、『ドカベン』の実写映画に登場する古本屋から『復讐するは我にあり』の雑司ヶ谷の老弁護士殺しに及び、その現場近くに池内氏が住んでいた、などと云う瑣事から池内氏の居住歴を何の気なしに確かめようとしただけだったので、ちょっと確認するつもりで何冊か手を伸ばしてみたまでで、池内氏の著述は殆ど見てもおりませんし、これ以上風呂敷を広げるのも厄介なので、もう少々瑣事を検討し終えたら止めるつもりでおります。『昭和の青春 播磨を想う』は愉しく読んだのですけれども。――後は、出来れば池内氏の著述の殆どに目を通しているような人に、それこそ『池内紀伝』でも執筆するつもりで、各著述間の異同について検討してもらえれば、と思うのです。
さて、漸く本書に戻るのですが、本書では【8】「東京地図帳」に東京での居住歴に触れています。142頁1~7行め、
十八歳のとき、はじめて東京にやってきた。北区滝野川の安アパートが振り出しだった。その/うち板橋に引っ越した。つづいて巣鴨のお地蔵さんの近くに移った。それから西にとんで世田谷/区三軒茶屋。次が東にもどり豊島区雑司ヶ谷。ここが気に入って四年あまりいた。そのあとが文/京区本駒込。ひとり者の気安さで、「東京」をつまみ食いするように転々としていた。
神戸とウィーンの六年半をはさみ、ふたたび東京にもどってきた。世帯をもち、子どもが一人。/つづいて二人目が生まれた。さしあたり国分寺市高木町。ついで同市並木町。そのあと三鷹市/に分相応の家を見つけ――履歴書ふうにいうと――現在にいたっている。
太字にしたところは何かと云うと、5月6日付「池内紀「雑司が谷 わが夢の町」(1)」に引いた、中公新書2023『東京ひとり散歩』の「はじめに」と重なる箇所です。書き出しと書き納めがほぼ一致しておりますから、ここは『東京ひとり散歩』を踏まえて書いていると判断されますが、中間がかなり違っています。少々詳しくしたり、東京を離れていた時期のことを足したりしたのは良いとして、『東京ひとり散歩』には巣鴨と本駒込が挙がっていません。それから、三軒茶屋と雑司ヶ谷の順序が入れ替わっております。
本書刊行の8年前の本ですけれども、その後で、これだけの修正がなされている訳です。その、誤った、と云うか曖昧な記憶をそのまま書いた方が中公新書と云うのも少々暗示的な気もするのですが、これも別の本を見ると、また違ったことが書いてあったりするのでした。(以下続稿)