瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山岳部小史(2)

 今だったら、連絡手段はSNSを活用するところであろう。T高校山岳部OB会も数年前から Facebook を開設して連絡を取り合っている。興三もたまに見ているが、興三を知らない世代のOBにまで公開されるというので書き込みはしていない。知っている面々とメールの遣り取りをするくらいである。
 しかし昭和末の当時は、固定電話と公衆電話、それから郵便くらいしかなかった。
 電話の使用も自由ではなかった。長電話をしていると煩がられる。そのためか、商店の軒先に設置されていたピンク電話の上に、10円玉を積み上げて通話時間切れを予告する音が鳴る度に1枚また1枚と投入して、恋人と話しているらしい若い男の姿を見掛けたものである。相手の女性の方も家族に煩がられたであろうが、若い娘を寒空の暗夜に1人立たせるのも物騒だから渋々認めたのであろう。それに、家の電話を使ってくれる分には用件から何から筒抜けになる訳だから、その方が安心とも言えたのである。しかし、無料通話などなかった時代、長電話だと受ける方も金が掛かると言われていたものだが、興三の家では妻がよく躾けて長電話をさせなかったので、この男の相手の家がどのくらいの電話料金を払ったものだか、見当が付かない。
 興三は官製葉書を常に数十枚買い置きして、何かあるとさっとボールペンで要件を書いて散歩がてら5分ほどのところにあるポストに投函するのである。少しややこしい要件の場合は便箋に認めて封書にした。便箋の方はすぐに出さずに翌日学校で気分転換も兼ねて一読点検し、帰り掛けに本局前のポストに投函することにしていた。手書きの文字が、伝達手段の中心にあった。
 今でも、メールを打つよりも葉書に書いた方が簡単だと思う。しかし、出しに行くのが手間である。それから、集配が日に2回になってしまい、夕方出しても翌日の昼過ぎまでポストに入ったままである。土曜の配達もなくなったら、書くのは簡単でも届くまでに3日も掛かってしまう。馴染まないながらパソコンでメールを打つことが増えてきた。しかし、メールは決まった時間に来ないし、形もないから受け取った実感がない。うっかりすると何日も経ってから、相手がすぐ見るであろうと予想して書いているメールに気付くようなことにもなる。
 昭和63年当時はそんな気遣いは無用だった。郵便は昼下がり、配達員たちが溜まり場にしている町の定食屋の裏手からバイクが見えなくなった頃に必ず配達されたし、電話はたとい夜中であってもけたたましく鳴ったのである。
 さて、Kへの返書には、電話番号も書いておいたが、電話は掛かって来なかった。別にそれが普通だったのである。だから興三はKとは数回、手紙の遣り取りをしただけだった。そのうち、何人かのOBから、先生から聞いていた通り、現役部員のKという男から、例の「山岳部小史」に添えて古い時期の話や資料について尋ねてきたので、質問に答える形で当時の様子を書いて返事をした、という連絡があった。4回生のブーと、12回生のコブタの2人は、保存していた山岳部関係の資料を全てKに送ったという。ちなみにコブタというのは、会計係をしていて、部費徴収に非協力的な部員たちの間を「部費、部費」と言って回ったので奉られた渾名だそうだ。当人に会ったことがあるが、ほっそりとして綺麗な女性である。ブーは、もちろん太っているのである。
 しかしそんな中で、8回生の相原君は、質問には一通り答えつつ、そんなことは止めた方が良い、あっという間に受験になって後悔先に立たず、となるぞ、と返事をしたそうだ。
 確かにその通りなのである。そして、これも今となってみると、という話なのだが、――OB会の Facebook がそれなりに活用されて、毎年、新年会やハイキングが挙行され、次第に参加人数も増加しているのを見ると、当時慌てて部史編纂を計画しなくとも、Facebook を活用して少しずつ、それこそ60年記念誌を目指してコツコツやった方が良かったのではないか、と思えてくるのだ。
 しかしそれは結果論である。娘が喜んで読み、孫もやはり喜んで見ている、未来から来たはずの『ドラえもん』だって、紙の教科書にパンを押し当てて食べると暗記出来る、みたいな〝秘密道具〟ではないか。区切りといえば丁度「25年史」の倍にもなる50周年が、数年前に大きな区切りとしてあって、T市に集まって料亭を会場にして盛大な会を開いたりもした訳だけれども、その頃はOB会の Facebook は開設されたばかりで、そこまで活用されていなかった。その後、検索してOB会 Facebook の存在を知って連絡して来た新しい世代との交流も出来たので、50周年当時のOB会は、とても記念誌のような大事業が出来るような規模ではなかったのである。今だって、現役の生徒との交流はないから、若い世代の参加がないままで、今のところ60周年記念に何か作ろうという話も出ていない。
 Kがいれば、今度こそ何か作ってくれたであろうか。しかし、そもそも、現在のKの居所を、誰も知らないのである。(以下続稿)

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 6月24日付(1)を読んだ、当ブログの顔の見える唯一の読者たる家人から、普段は殆ど何も言われない――批判がましいことを書いたときに、そんなことは余り書かない方が良いと言われるくらいだのに、松本清張のような、と言われました。確かに「水行陸行」など、邪馬台国を研究している浜中という男から大学講師のところに手紙が届いて、それが詐欺だか殺人だか遭難だかになって行くのだが、本作は、別に、どうともなりません。或いはKは「加藤」、もしくは「浜中」とでもすれば良かったでしょうか。
6月29日追記】「水行陸行」にも見知らぬ人物から手紙が届く件があるが浜中からではなかった。「或る「小倉日記」伝」として置いたら良かった。――「或る「小倉日記」伝」にも設定に欠陥があって、論文を集めたり初出(の再録)を見たりしたものだが、記事にしないままである。遠からず果たしたいと思う。思ってばっかりだが。