・遠田勝『〈転生〉する物語』(19)「一」11節め③
昨日の続きで、11節め「昭和の大説話集『大語園』」から、遠田氏が『大語園』の「白馬岳の雪女」が「ハーンからの翻案」とハーン研究者たちにも気付かれず、逆にハーンの「雪女」の原話とみなされてしまった理由として主張するところを見て置こう。42頁10~13行め、
『大語園』編集者の巌谷小波は、いうまでもなく、日本の児童文学、説話文学の開拓者であり第/一人者、明治大正の大ベストセラー作家であるが、当時の小波は多忙をきわめ、また途中より大病/に倒れてしまったので、実質的な編集・執筆は、小波の愛弟子である木村小舟が任されていた。/したがってこの「白馬岳の雪女」も小舟の選で、彼の筆になるものと考えてよいだろう。*1
そして43頁10~11行め、
木村小舟は、小波のもっとも信頼する助手として、博文館などで日本の伝説童話の執筆に腕をふ/るった練達の再話作家である。
として、12~13行めに「白馬岳の雪女」の冒頭、44頁1~2行めに末尾を引く。なお引用末の注(21)は、241頁12行めに「(21)巌谷小波編『大語園』第七巻、平凡社、一九三五年、五七五―五七六頁。」とある。――続いて44頁3~10行め、
と語りおさめるまで、ほぼ一頁。口碑としては、ありえないほど冗長な青木の文章を、いかにも山/村の炉辺で、古老の語りきれる自然な長さに縮めたばかりか、青木の翻訳臭まるだしの、生硬、不/自然な表現のことごとくを修正し、またいかにも俗っぽい「情話」めいた雪女のセリフもけずり、/どこからだれがみても、本物の口碑伝説のように仕上げてしまったのである。それがあまりにも見/事だったために、記事の末尾におかれた「(山の伝説)」という括弧書きが、出典の注記ではなくて、/これは古来、山に伝わる伝説であるという、但し書きのように読まれてしまうことになった。
こうして「白馬岳の雪女」は、日本古来の口碑伝説として、念入りに化粧をほどこされたうえに、/「巌谷小波」という最高のお墨付きまで得てしまったのである。
とするのであるが、余計な表現を削って縮約したことを「日本古来の口碑伝説として、念入りに化粧をほどこされた」とするのはやや遠田氏の主観が入り過ぎているのではないか。それに『大語園』に「白馬岳の雪女」が載っていることは村松眞一が掘り出して来るまで全く話題になっていなかったのだから「巌谷小波」の名前が「最高のお墨付き」として機能するようなことも、なかったはずである。もし「巌谷小波」が「最高のお墨付き」になるとすれば、それは遠田氏にとってのことで、差当り本書の中に限られるであろう*2。
「(山の伝説)」の注記については、牧野陽子が新稿で取り上げている。初出109頁9行め~108頁6行め、傍点「ヽ」は再現出来ないので傍点箇所を仮に太字にして示した*3。
前述の村松の文章は、当人も註で断っているように、中田賢治がすでに記した(そしてその後いわば撤回した)/文章と同じ趣旨である。すでに信州の伝説はハーンの原話ではないとする論が多く書かれているにもかかわら/ず、全くそれに対しては言及がなされていない。反論として書いたという意識もみられない(15)。ただ、村松の発見/は、中田が用いた松谷みよ子らの「雪女」伝説より古い、巌谷小波監修の『大語園』(一九三五年)に、「山の伝/説として伝えられる」(傍点筆者)越中越後国境の「白馬岳の雪女」という、ハーンの「雪女」そっくりの物語が/収録されていることをみつけたことにある。と同時に、村松にとって残念だったことは、『大語園』所収のその/物語の出典を見落としたことであった。「白馬岳の雪女」の最後には、はっきりと『山の伝説』と出典が記され/ており、最終巻末の長い文献リストのなかにも当然ながら、『山の伝説』があげられているのである。
だが村松は、『山の伝説』を書名だと思わずに、普通名詞だと勘違いした。だから、「山の伝説として伝えられ【―109(10)―】る」と説明したのである。それは、ハーンの作品には原話があるという思い込みの強さゆえとも思えるし、また、/原話があるはずだという前提にたてば、松谷みよ子の民話より古いテキストをみつけた喜びで、他のことが目に/入らなくなったのかもしれない。
そして、遠田の論は、このナイーヴな勘違いを利用する形で進む。つまり、村松の勘違いにすぎない〝山の伝/説として〟という形容を額面通りのものに受け止め、(村松説のほうが有利ではないかと思った理由として)こう述べ/るのである。「‥‥
牧野氏はこれに続けて、9月4日付(37)に引いた本書3節め「捏造された「雪女」伝説」22頁3~5行めを抜いている。
中田氏の「文章」及び「撤回」については8月19日付(23)の後半に見た。遠田氏は「保留に近い態度にあらためているように思える」としているのだけれども。注(15)は95頁12~13行め、
(15) 一般に論争の内容を理解するためには、発言の順序や経緯も重要だと思われるが、遠田には、村松の短文が掲/載された雑誌の平成一〇年という発行年を、脚注にさえ記していない。
とあって、前回、本書の注に村松氏の文章の刊年が入っていないことに注意して置いたけれども、本書は他の資料には(多分全て)年を本文もしくは注に示しているのに、何故か村松氏のものにだけ示していない。単なる体裁不統一なのかも知れないが牧野氏が指摘するようにこの発行年が欠けているのは「発言の順序や経緯」の理解に支障を来しかねない「重要」な脱落で、校正担当者が一読気付いて引っ掛けそうなものだ。だから、どうも、わざと(ある意図をもって)抜いたような気さえするのである。
それはともかく、村松氏は「白馬岳の雪女」末尾の「(山の傳説)」を「見落とした」のではなく「書名だと思わずに、普通名詞だと勘違いした」のだが、遠田氏はこれを「口碑として」の「修正」が「あまりにも見事だったために、記事の末尾におかれた「(山の伝説)」という括弧書きが、出典の注記ではなくて、これは古来、山に伝わる伝説であるという、但し書きのように読まれてしまうことになった」と擁護し、妙な方向で一般化しようとするのである。
しかし、これは、奇妙である。もちろん牧野氏が指摘するように『大語園』第十巻*4一二七~一四二頁「引用書目一覽」を見れば、一四〇頁4段め9行め~一四一頁一段め8行め「や ノ 部」に14点挙がるうち2番めに「山 の 傳 説」が見えている。そうでなくても『大語園』第七巻、四五九~七八八頁「は ノ 部」の「一二三 白 馬 岳 の 雪 女*5」五七五頁下段10行め~五七六頁の前後、まづ五七四~五七五頁見開きを見るに、五七四頁上段1~13行め「一二〇 白 晝 の 飛 物*6」の末尾には「(梅翁隨筆)」、次の「一二一 白 雉 の 瑞 兆*7」の末尾、五七五頁上段5行めには「(日本書紀)」、その次の「一二二 白鳥河原の孝女*8」の末尾、下段9行めには「(集賢夜話)」とあり、五七六頁と見開きになっている五七七頁を眺めれば、上段1~10行め「一二四 白 波 賊 (支)*9」の末尾には「(後漢書)」、次の「一二五 白 髪 黒 髪 (天)*10」の末尾、下段12行めには「(經律異相)」とあり、このうち『集賢夜話』は「引用書目一覽」に見えないようだが、他の本は全て「引用書目一覽」に見えているし、そうでなくても『日本書紀』や『後漢書』はもちろん、『梅翁随筆』や『経律異相』が書名であることも、分かりそうなものだ。ここに1つだけ、何処だかの「山の伝説」が紛れ込む訳がないのである。――書物を利用する際には、どのような体裁になっているか、「凡例」を見たり、前後の項目と見比べて確認するべきなのだが、村松氏はこの当然の手続きを怠って普通名詞だと「勘違いした」に過ぎない。同じようなそそっかしい人は他にもいそうだが、しかし、全く、牧野氏が指摘する通り、個人的な「勘違い」である。それを、遠田氏は「利用」して、巌谷小波の権威に結び付け、これまで殆ど問題にされて来なかった『大語園』の書物としての素晴らしさを(確かにそうだとしても「白馬岳の雪女」の流布と定着に余り関係するようには思われないのに)言い募って、一般化しようとするのである。――この辺りの展開は、厳しく批判されないといけないだろう。(以下続稿)
*1:ルビ「さざなみ//しょうしゅう/」。
*2:或いは本書を「額面通りのものに受け止め」た人にとって。
*3:それから牧野氏の新稿は、牧野氏の近著に収録されているのだが、しばらく手許になかったのでネット閲覧出来る初出にて作業を進め、追って異同を示すつもりであったが、どうも色々細かく手を入れているようで、追記で済むか覚束なくなって来た。そこで初出と再録での本文異同は一括して記事に纏めて示すこととし、差当り遠田氏に対する、最初の、生の反応である初出のみで(8月19日付(23)に述べたように初出は成城大学リポジトリで誰でも閲覧出来ることもあり)進めることとした。
*4:私は『「説話」大百科事典 大語園』全10巻(昭和53年6月10日 復刻版初版第1刷発行・昭和59年4月20日 復刻版初版第2刷発行・名著普及会)に拠った。この復刻版は初版(平凡社版)の奥付を示さないので初版の刊年月日が分からない。
*5:番号は半角漢数字、ちなみに頁付も半角漢数字で明朝体。ルビ「はく ばが だけ・ゆきをんな」。
*6:ルビ「はく ちゆう・とび もの」。
*7:ルビ「はく ち・ずゐ てう」。
*8:ルビ「はくてうが はら・かうぢよ」。
*9:ルビ「はく は ぞく」。なお「(支)」は支那 China の話であることを示す。
*10:ルビ「はく はつ こく はつ」。なお「(天)」は天竺 India の話であることを示す。