瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

白馬岳の雪女(38)

・遠田勝『〈転生〉する物語』(18)「一」11節め②
 昨日は11節め「昭和の大説話集大語園』」には入らず、2節めと3節めに『大語園』が持ち出されていたところを引いて、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧出来なくなっていることや、やや使いにくい(と私には思われる)ことなどで、書き過ぎてしまった。
 気を取り直して(?)それでは遠田氏が本書をどう位置付けているのか見て置こう。42頁6~9行め、

 次に白馬岳の雪女伝説が活字になって登場するのは、昭和の大説話集『大語園』の第七巻である。/青木の「雪女(白馬岳)」は、現物を一読しさえすれば、ただちにハーンからの翻案とわかるもの/だが、しかし、『大語園』に載った「白馬岳の雪女」は違う。その全文がハーン研究の専門誌に引/用されているにもかかわらず、その正体を見抜けなかったのである。それはなぜか。


 「次に」とするが、昭和10年(1935)刊の『大語園』よりも前に、富山県では昭和7年(1932)に雑誌に出ているし、長野県でも昭和8年(1933)に出た本に取り上げられている。――8月22日付(26)に示した探索結果から窺われるように、遠田氏は村松眞一や中田賢次の指摘から遡って行く方法を採ったようであるが、同じ地域で時代の近い伝説集に当たるべきだったし、やはり雑誌を対象から除外したのはいただけない。いや、富山県の雑誌の方は11年前にはデータベースが未整備で探し当てられなかったかも知れないが、昭和12年(1937)に本に纏められ、戦後にも復刊されているのを、遠田氏は見ていない。長野県で刊行された本は昭和60年(1985)に復刻版が出ている。どうしても見付けられないと云う種類のものではない*1。その意味で『大語園』を「次に」と位置付けるのは調査不足に拠る過大評価の気味があるのである。
 さて、結局のところ『大語園』に載った「白馬岳の雪女」にしても青木純二『山の傳説 日本アルプス』の「雪女(白馬岳)」を介しての「ハーンからの翻案」に過ぎないのだが、遠田氏は『大語園』は「ハーン研究」者たちが村松眞一「ハーンの「雪女」と原「雪女」」に「引用され」た「その全文」を「一読し」ても「ただちに‥‥その正体を見抜けなかった」くらい、自然な口碑伝説になりおおせている、と云うのである。
 この点については、牧野陽子が8月19日付(23)に見たように新稿で反論している(牧野氏の旧稿は村松説の発表前)。牧野氏の反論の続きを見て置こう。初出111頁3~11行め、

 そもそも〝論争〟というからには、ある問題について、同レベルの場で、同程度の主張がなされ、少なくとも/一回は意見の応酬がなされていなければ、論争とはいえまい。著者は、相対する意見の「それぞれを代表する」/ものとして、ふたつの文章のタイトルと著者名だけを同等に並べるため、双方が対等のものであると読者は錯覚/する。
 だが、村松の文章は地方の同人誌静岡県焼津図書館内におかれた 「小泉八雲顕彰会」 が会員向けに年一回発行する 『八雲』という雑誌で、総頁数はあとがきを入れて二二頁)にのせた、わずか三頁ほどのものである。
 一方、ハーンの作品の方が日本に土着して、松谷みよ子らの雪女の話になっていった、と考える研究者、ない/し、それを前提にしている論は、拙論以外にも、刊行された著作、紀要論文のなかからいくらでも拾いだすこと/ができる。(やや煩雑になるが、事実として列記しておきたい。)

として、橘正典・藤原万巳・中田賢次・大澤隆幸・横山孝一・田中雄次の著書・論文を紹介して、110頁10~11行め、

 つまり、遠田が問題提起として述べたこととは反対に、ハーン研究者の多くは、信州白馬岳の「雪女」の話が、/ハーン作品の原話だとみなしてはいないのである。

とする*2。すなわち、遠田氏は、村松氏への(直接的な)反論が出なかったことを、「ハーン研究者の多く」が『大語園』の「白馬岳の雪女」の「正体を見抜けなかった」からだと思っているらしいが、そんなことは論ずるまでもないことだから誰も村松氏に反論も反応もしなかったのだ、と云うのである。
 私は、学界のこういうところが苦手である。2013年2月13日付「謬説の指摘(4)」等にも述べたが、駄目なことが証拠を挙げて説明出来るような論文は、きちんと駄目だと言ってやらないと、事情が分かっている者はそれで良いかも知れないが、何処で不注意な者によって蒸し返されるか分からないのである。実は誰も取り合っていない――無視しているだけだのに、それこそ、誰も表立って反論していないのは、その言い分が認められているのだろう、と思い込むような人が出て来てしまう。直接言うと何故か怒る人がいて、色々と問題が起こりかねないようだけれども、別に人間としていけないと言う訳ではない(そういうこともあるかも知れぬが)、論の、そこのところだけ、或いは、そこがいけないために論全体がいけない、と云うばかりである。後学のためにも、いけない説に尤もらしい顔をさせて居座り続けさせてはいけないので、はっきりいけないと言えるものは、その時点で潰して置かないと、その忖度が後々に禍根を残すことになる。その点、牧野氏がこうしてきっぱり批判の声を上げたのは非常に良いことだと思うのである。(以下続稿)

*1:詳しくは他氏の研究も参照しつつ後述する。

*2:このうち橘氏の本のみ村松氏の文章より前。