瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中島悦次『傳説の誕生』(2)

 昨日の補足。
 中島氏の祖父と父だが、オークションサイトの説明に以下のようにあった。

森廣陵 もり・こうりょう。(明治七・1874~大正十・1921)は名廉、本姓中島、前橋の南宗画家、霞巌の子。寺崎廣業の門人。


 出典を示していないが美術関係の人名事典から引いたのであろう。これで祖父と父が「森」なのに「中島」悦次である理由は分かった。いや、何故「森」なのかが今度は分からない。
 それから、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧出来る次の本に、顔写真と作品と略伝が掲載されている。しかし古いマイクロフィルムに拠っているらしく、特に顔が良く分からない。
・川島正太郎 編『現今名家書畫鑑』明治三十五年十二月 二 十 日印刷・明治三十五年十二月二十八日發行・正價金四圓二十錢・眞誠堂
 和本らしい。まづ谷如意(1822.三.二十五~1905.12.26)の書があり、次いで星山山本巽書の香國土居通豫(1850~1921)撰「序」、「明治三十五年十二月」付の「編者識」の「例言」裏は白紙。「現今名家書畫鑑目次 (いろは順)」4頁(頁付なし)、以下1頁に1人(裏は白紙出頁付なし)で一三五頁135人、さらに目次にない「 者 輯 編 /郎太正島川」の顔写真があって、目次に「附加」とある一一頁の追加がある(頁付「フ 一(~フ 一一)」)。最後に芝田小坂徹(1872.正.一~1917.9.5)の「跋」、奥付。
 一二三頁は上部に流れの緩やかな渓流を行く舟の絵、白髯の顔写真。下部に2字下げで大きく「森霞巖氏畧傳」、その左下に小さく「(現住群馬縣前橋市榎町三四)」と添える。3~14行め、行間・字間を広く取って読点は字間に打つ。

名ハ恭、字ハ儉讓、霞巖ハ其號ナリ、/天保十三年、上野國前橋市ニ生ル、/父ハ江戸ノ人、東溪ト號シ、谷文晁/及大西圭齋ニ就キ、北宗畫ヲ能ク/シ、技ヲ挾ンデ四方ニ漫遊シ、竟ニ/前橋市ニ寓居シ、子弟ヲ薰陶ス、氏/幼ヨリ畫ヲ好ミ、夙ニ家學ヲ受ケ、/刻苦勵精、多年ノ後技頗ル進ム、父/翁歿後、其遺業ヲ繼承シ、傍ラ門生/ヲ誘導シテ今日ニ至ル、嘗テ東洋/繪畫會學術委員ヲ囑託セラレシ/事アリ、


 一二四頁、右上に顔写真、紋付き・短髪だが顔立ちは良く分からない。その下に紹介文、その右に4字下げで「森五巖氏畧傳 (現住群馬縣前橋市榎町三四)」とある。2~6行め、紹介文は、

名ハ廉、五巖ト號ス、群馬縣、前橋市ノ人、明治七年十/二月生ル、氏ノ家ハ、三世、畫家ヲ出ス、祖父ヲ東溪ト/號シ、父ヲ霞巖ト號シ、並ニ北宗畫ヲ作ル、氏夙ニ家/學ヲ繼承シ、明治三十五年上京シテ、寺崎廣業氏ニ/就キ、孜々トシテ研究シツヽアリ、

とやや短く、左半分は唐美人の立ち姿の絵。前回見た『傳説の誕生』の「あとがき」の記述では明治36年(1903)6月頃に上京したように読める。しかしその前年、明治35年(1902)12月刊行の本にこうあるのだから、前年には上京していたようである。妻子を連れて上京したのが明治36年なのだろうか。上京して寺崎広業(1866.二.二十五~1919.2.21)の門人になったことで「五巌」の号を「広陵」に改めたのであろう。(以下続稿)