・企画の意図と時期及びスタッフ(上)
ここでは標記に関する記述を抜き出して置こう。
『上』「はじめに」3頁9~11行め、
昭和五十年春、大戦後三十年という歴史的なフシ目を目の前にして、私たち朝日新聞社会部立川支局の記者たち/は、明治以来、百年の多摩の歴史を掘り下げなければ、と考えました。多摩の民主主義運動といえるような民衆の動き/は、現在と性格こそ違え、明治十年代、自由民権運動としてこの多摩の山野に盛り上がっていたからです。‥‥
すなわち「悲劇の群像」を副題とする『上』は、自由民権運動を主に、その前後、幕末から敗戦までを扱っている。目次では章の題と頁(算用数字)のみ並べているが、本文では題の左下に副題を添えている。ここでは副題ごと示して置こう。
1章め「武州一揆/――追いつめられた農民」11~26頁
2章め「御門訴事件/――むさし野の涙」27~41頁
3章め「千人同心/――下級武士の非運」42~51頁
4章め「豪 農/――村の支配者」52~61頁
5章め「郷 学 校/――自立への試み」62~72頁上段
6章め「キリスト教/――迫害の中で」73~89頁上段
7章め「学問の風/――山村にも息吹く」90~97頁
8章め「豪農民権/――農民、歴史の舞台へ」98~116頁
9章め「秣場事件/――土地ころがしへの抵抗」117~136頁上段
10章め「困民党へ/――借金苦に追われて」137~157頁
11章め「困民党崩壊/――離散と沈黙」158~182頁上段
12章め「国権と民権/――挫折した民権主義者」183~202頁上段
13章め「国権への傾斜/――民党死す」203~233頁
14章め「軍国への道/――「富国強兵」を推進する民権家」234~253頁上段
15章め「「幻想」の終章/――「祖国の栄光」の陰で」254~274頁
各章はさらに幾つかの節に分かれており、全ての節にではないが地図や写真が挿入されている。これら全てを打ち込み、さらに登場する人名(歴史上の人物と取材を受けた子孫など)地名を細かく拾って行けば本書に詰め込まれた情報を引き出し易くなると思うが、1日1章で向う1ヶ月くらいの作業になってしまうので止めて置く。
企画の意図と開始時期、具体的な作業については『上』「あとがき」の前半を抜いて置こう。283頁2~13行め、
歴史の専門家ではない新聞記者にとって、多摩の百年をそれなりに掘り下げることは、厳しい作業だった。社会部/立川支局が多摩の百年の企画を立てたのは第一部スタート一カ月前の五十年五月。敗戦後三十年の八月十五日を迎え/るに当たり、多摩近代史を追究する中で、あの戦争の重みをとらえ直してみたい、ということだった。日本近代史と/重なる多摩近代史には先学の努力、精進によってさまざまな光が当てられている。しかしそれを新聞の連載読み物と/して、歴史の流れに沿い、事実の正確さを期しながら描いていくことは、素人として、やはり身を削る努力が必要だ/った。
いつの時代にせよ、足で歩くことは新聞記者の武器である。スタッフは寧日なく、多摩の地を歩き回り、千人同心/や困民党ゆかりの人たちを求めて全国各地に足を伸ばした。深夜は、専門書で体系だった歴史の骨格をつかむ作業/と、「何を書くべきか」の議論が待っていた。「多摩の百年」はもとより事実に基づいて描かれてはいるが事実の羅列/ではない。現代に生きるわれわれは、この百年をどうとらえ、どう解釈すべきか――それが、新聞記者としての問題/意識だった。事実を知れば知るほど、「何をどう描くか」という悩みも深まった。
ともあれ、限られた時間と少数のスタッフによる無謀ともいえる苦闘の中で、「多摩の百年」第一部は生まれた。/‥‥
そのスタッフについては最後、284頁9~11行め、
‥‥。/第一部「悲劇の群像」の執筆には、坂本龍彦社会部立川支局長をデスクに、東京本社社会部員の岡部実記者、落合博/実記者、中山堯記者が当たりました。写真は同写真部の岡光真一記者(現朝日小学生新聞写真課長)、丸山好雄記者、前/田龍彦記者の撮影、筒井敏己の協力によるものです。
とある。HMV&BOOKS online のプロフィールに、次の2人が登録されている。摘記して置こう。――坂本龍彦(1933生)は山梨県生れ、満洲からの引揚者でそれに関連する著書が何冊かある。早稲田大学文学部卒業、昭和32年(1957)朝日新聞社入社。社会部、編集委員を経て平成5年(1993)退社、新聞や新聞記者に関する著者もある。落合博実(1941生)は東京都生れ、産経新聞社記者を経て昭和45年(1970)朝日新聞社に入社。社会部、編集委員を経て平成15年(2003)退社。(以下続稿)