・歴史の道調査報告書 第四集『浜街道』(4)
今回は、馬場喜信執筆と思われる、27~54頁〔43~69頁〕「三 道筋の確定と現状」について、もう少し詳しく見て置こう。
27頁〔43頁〕上段2~21行め「㈠ はじめに」はこの章の目的と依拠した資料について述べる。
27頁〔43頁〕上段22行め~30頁〔46頁〕上段23行め「㈡ 横浜開港以前の浜街道の道筋の状況」は江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』と『武蔵名勝図会』に見える峠や沿道の村の記述を引用、30頁〔46頁〕上段24行め~37頁〔53頁〕上段5行め「㈢ 横浜開港以後の浜街道の道筋の状況」は参謀本部陸地測量部による二万分の一迅速図と『皇国地誌』の記述を対象させながら、明治期の浜街道の様子を探っている。35頁〔51頁〕下段5行めから最後までは、法政大学地域研究センター叢書5『歴史的環境の形成と地域づくり』第一部「第七章 浜街道《絹の道》―歴史的景観の発掘と史跡化―」の、4月7日付(27)に取り上げた「第一節 浜街道《絹の道》の生成から衰退まで」の「(2)浜街道―盛時から忘れられた時代へ」の前半、或いは「〔年表〕《絹の道》―歴史的景観の発掘と史跡化(一八七四年~二〇〇四年)」220頁下段3~14行めに重なる。
そして、37頁〔53頁〕上段6行め~40頁〔56頁〕下段19行め「㈣ 八王子から鑓水峠へ(約四・四キロメートル)」、40頁〔56頁〕下段20行め~47頁〔63頁〕上段3行め「㈤ 鑓水峠から浜見場へ(約二・六キロメートル)」、47頁〔63頁〕上段4行め~50頁〔66頁〕上段16行め「㈥ 浜見場から木曾へ(約九・三キロメートル)」、50頁〔66頁〕上段17行め~52頁〔68頁〕下段23行め「㈦ 森野から鶴間へ(約七・七キロメートル)」の4節は、かたくら書店新書45『浜街道』の、4月24日付(43)に見た「第1部 調べてみよう「浜街道」」の「7 浜街道あちこち」のうち「① 甲州街道から浜街道へ」から「⑥ 横浜線を渡るところ」までに当たる。残りの⑦⑧⑨は神奈川県横浜市なので東京都の管轄外と云うことで本書では調査対象になっていない。
道了堂のことはもちろん「㈤ 鑓水峠から浜見場へ(約二・六キロメートル)」に詳述されている。この章の、特に力を入れた箇所と思われるので少し前から引いて置こう。41頁〔57頁〕上段1~2行め「/国道一六号八王子バイパスやその左手の高台に立つNTTの御殿山無線中継塔/など、現代の最新鋭の交通・通信ライン」に触れて、9~20行め、
北方に広がる峠からの大展望をあとにして、いわゆる〝絹の道〟の核心地/帯である鑓水へと歩を進めていく。道は左手に高まる大塚山を巻くようにして/その南面へと進む。いま見たばかりの現代の光景とはうって変わった時の中へ/と入っていく感じを覚える。大塚山の斜面には、ケヤキの大樹が道筋に沿うよ/うに並んでその梢を天空に広げ、クヌギ・コナラ・サクラなどの落葉樹林が道/筋をかばうかのようにその枝葉を伸ばしている。ひっそりと閉ざされたその空/間の中を、路面に敷きつめられ半ば埋もれたごろた石を踏みながら進むと、わ/ずかに視界が広がり、大塚山公園の前に出る。公園へ登る石段の左手のたもと/に、先に紹介した「絹の道」の石碑が建っている。
大塚山公園は、かつてこの地に営まれた道了堂の境内をそっくり公園として、/平成二年(一九九〇)三月に開設された。この地については、まず次の文を引/いておきたい。
と、北から回り込んで「絹の道」碑の前に出ている。「絹の道」碑については「二 浜街道概観――生糸の道としての歴史的背景と浜街道地域の概要」の「㈤ 生糸の道としての浜街道とその盛衰」の冒頭に、浜街道ルートの一部が「絹の道」として知られるきっかえとなった記念碑として触れてあるのを昨日引用して置いたが、続く部分(22頁〔38頁〕上段7~11行め)に銘文及び建碑の中心人物橋本義夫が紹介されていた。
「次の文」すなわち21~26行めの引用は、下段1行め下寄せで「(高橋源一郎『武蔵野歴史地理第四冊』六六四頁)」と出典を示す。当ブログでは5月21日付(58)に『武蔵野歴史地理』の原本から引用して置いたが、本書では鑓水峠とは無関係の、末尾の一文は省略されている。
具体的な解説はこれに続いて2~13行め、
道了堂は、鑓水永泉寺の別院として明治六年(一八七三)生糸商人たちの協/力により東京花川戸から堂宇を移築して創建された。明治二十六年(一八九三)/の「武蔵国南多摩郡由木村鑓水大塚山道了堂境内之図」の題名のある銅版画に/は、満開の桜のもと参詣人で賑わう境内のようすが回廊をめぐらす伽藍の配列/とともに描かれ、明治四十四年刊行の『八王子案内』(島村一鴻編)の「近郊/の名所旧蹟」に「道了権現。八王子町より小山に通ずる鑓水峠の絶頂にありて/相州小田原なる大雄山最乗寺道了薩陀の分霊なりと云ふ。堂前に高さ数十尺の/大錫杖あり。境内頗る幽静なり。」とあり、また大正十二年(一九二三)発行/の『南多摩郡史』にまで「名勝旧蹟」として採録されているなど、道了堂の盛/時は半世紀ほど続いたが、そののち衰退した。戦後になって無住となった堂は/しだいに荒廃し、昭和五十八年(一九八三)解体された。いま本堂の礎石はそ/のまま残されて、そこに公園のシンボリックな空間を形づくっている。
とある。創建から『八王子案内』までは、4月9日付(28)に見た、法政大学地域研究センター叢書5『歴史的環境の形成と地域づくり』第一部「第七章 浜街道《絹の道》―歴史的景観の発掘と史跡化―」の「〔年表〕《絹の道》―歴史的景観の発掘と史跡化(一八七四年~二〇〇四年)」の記述とほぼ重なるが、『歴史的環境の形成と地域づくり』では明治7年(1874)建立から始めていた。『南多摩郡史』については同様に『歴史的環境の形成と地域づくり』の記述から原本に遡って4月10日付(29)に引用した。しかし「戦後になって無住となった」とはかなり乱暴な纏め方で、殺人事件で無住になったと云うのは衝撃的ではあるけれども記載を忌避すべき事柄なのだろうか。かつ、これから取り上げる予定の、昭和40年代の幾つかの資料を見る限り「しだいに荒廃し」たのではなく、事件から遠からぬ時期に組織的に荒らされたとしか思えない。昭和58年(1983)解体説が誤りであることは、先月来確証を挙げて縷々述べてきたところである。(以下続稿)