瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(29)

・法政大学地域研究センター叢書5『歴史的環境の形成と地域づくり』(4)
 昨日の続きで、馬場喜信の論文、第一部「第七章 浜街道《絹の道》―歴史的景観の発掘と史跡化―」の「第一節 浜街道《絹の道》の生成から衰退まで」の「(2)浜街道―盛時から忘れられた時代へ」の後半から、道了堂に関する箇所を抜いて置く。
 すなわち、207頁12~14行め「‥‥。大正期に入って、東京府や国が史跡・名勝・/天然記念物などの保存に乗り出し、戦後も早くに文化財保護法は制定されるといった新たな状況が生まれたなかに/あっても、この道は、それらの施策の対象となることはなかった。‥‥」として、15~18行め、

‥‥。〔年表〕の②に「忘れられた時代―《絹の道》以前」として掲げたように、もっぱら/大塚山山頂の道了堂だけが八王子近郊の名勝として紹介されるにとどまっていた。かつての浜街道の活況は忘れら/れたままで、鑓水商人についての記述も諸書に見つけだすことはできない。こうした状況が、戦後もしばらくの間/つづいていた。

とする。〔年表〕のこの辺りはごく短く、1行分空けて221頁上段14行め~下段13行め「②忘れられた時代―《絹の道》以前」は僅かに、大正12年(1923)の『南多摩郡史』、昭和7年(1932)の『武蔵野歴史地理(第五冊)八王子地方』そして昭和25年(1950)の文化財保護法制定の3条である。
 馬場氏は『武蔵野歴史地理』の引用の次に1段落設けて、下段8~12行め、

 本書や前項の『南多摩郡史』など当時の刊行物には、/浜街道や鑓水商人についての記述は見あたらない。また/戦後しばらくの間に刊行された〈歴史散歩〉関連の書に/も浜街道の紹介記事は見られない。道は忘れられ、道了/堂のみが八王子近傍の名勝として残された。

と纏めている。
 『武蔵野歴史地理』については改めて取り上げるつもりなので、ここでは『南多摩郡史』について触れて置く。
 南多摩郡役所 編『南多摩郡史』(大正十二年三月二十日印刷・大正十二年三月三十日發行・非賣品・南多摩郡役所・三頁+「圖内管郡摩多南府京東」+口絵写真+五一五頁+附録「南多摩郡勢一斑」九四頁)は国立国会図書館デジタルコレクションにて、昨日触れた『八王子案内』と違ってカラー写真が閲覧出来る。
 この頃編纂された『郡史』或いは『郡誌』類には、寺社等名所古蹟を積極的に取り上げたもの、習俗や伝説に多くの紙幅を割いたものなども少なくないが『南多摩郡史』はそう云う作り方をしていない。明治11年(1878)に神奈川縣多摩郡が分割されて成立した、近代の郡制に於ける行政区画・地方自治体としての「南多摩郡」の歴史を、郡制の廃止を前に、纏めて刊行したもので、管内の近代以前の歴史や、民俗については全く取り上げていない。僅かに附録「南多摩郡勢一斑」の最後(八九~九四頁)に「名  勝  舊  蹟」を33箇所取り上げているだけである。
 従って、馬場氏が『南多摩郡史』に「浜街道や鑓水商人についての記述」がないことを言挙げしていることは少々問題がある。そもそも郡制・郡役所に関係ない事項を殆ど取り上げていないのであって「浜街道や鑓水商人」だけを殊更不当に取り扱った訳ではないからである。
 さて、馬場氏は223頁上段15行め~下段1行めに、

一九二三年(大正一二) 『南多摩郡史』が刊行される。巻/ 末《名勝旧跡》に「道了山 明治六年地方の信仰者新に/ 山上に關棘を開き殿堂を建設して道了大菩薩を東京浅草/ 花川戸より遷佛したりと云ふ境内眺望に富む。」との記/ 述がある。

と本書を引用するが、原本に就くと「名  勝  舊  蹟」の19条め、九二頁6行めの上部に「道 了 山 」として6~7行めに高さを揃えて以下の説明がある。

由木村大字鑓水にあり明治六年地方の信仰者新に山上に關棘を開き殿堂を建設して道了大菩薩を/東京淺草花川戸より遷佛したりと云ふ境内眺望に富む八王子驛より約一里


 馬場氏が位置に関する記述を省略しているのは『八王子案内』に同じである。(以下続稿)