瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(107)

・ふるさと板木編集委員会『ふるさと板木』(3)妙見菩薩
 道了堂は鑓水の南東部に位置する板木谷戸ではなく、鑓水の北端の大塚山にある。だから位置からすると本書の範囲にならないのだが、その創建には板木谷戸の人々も大いに関わっていた。そのことが、66頁に掲載される石版画「武藏國南多摩郡由木村鑓水/大塚山道了堂境内之圖」の説明文と「板木谷戸年表」に説明されている。
 66頁の説明文は以下の通り*1

道了堂境内図
 明治七年、永泉寺十/七世大淳代に、板木の/大塚五郎吉、小泉平右/ェ門等の発企で、当時/の甲州往還、又は神奈/川往来といったシルク/ロードの沿線鑓水峠頂/上の十二州を望むとう/たわれた眺望絶佳の地/を相し、創建された永/泉寺別院大塚山道了堂/の銅版画である。明治/二十六年出版のもので/一応境内の諸伽藍が整/った時のものである。/本堂は板木浜道にあっ/た妙見堂を移築したも/のであり、本尊道了大/薩埵は浅草花川戸より、/その脇侍にした十一面/観音は永泉寺、妙見菩/薩は板木より移したも/のである。


 89~94頁「板木谷戸年表」は「編集責任者」である小泉栄一が作成したものらしい。91頁上段~92頁上段4行めまでが「明 治」である。
 91頁上段1行めが「明 治 元  年」は2行め末が「‥‥編入さ/」で終わっていて次の1行分が空白で続きがない。次の行は年がなく「鎮守諏訪神社に板木講中十五名で石造水鉢一対奉納する。」とあって、恐らく「元  年」の続きなのだろうけれども、少々戸惑う。再版では訂正されているものと思って、空白の行を「/れる。」が入るべき3行め、そして水鉢奉納を4行めと勘定して置くこととしよう。
 道了堂に関する記述があるのは、91頁上段14~21行め「七  年」条である。全文を抜いて置こう。

大塚忢郎吉・小泉平右ェ門等の発起により、永泉寺別院道了/堂を大塚山に創建する。
神仏分離令に基き、浜道の妙見堂は解体、妙見菩薩像と堂宇/は道了堂に、妙見社祠は氏神諏訪神社に合社とする。
浜街道御岳社も諏訪神社に合社する。
鑓水学校・永泉寺本堂に引き移る。
御岳・妙見社境内の立木は売却、板木谷戸十五軒分として金/三十円を鑓水学校資本金に寄附する。


 この「諏訪神社」が現在の諏訪神社ではないことは6月26日付(087)に見た通りである。但し明治9年(1876)条はなく、移転のことを説明しないまま26~29行め「十三 年」条に、

皇国地誌鑓水村の編纂なる。
鑓水学校新校舎 元諏訪神社跡に落成する。*2大工は大塚磯吉/小泉梅次郎・大塚与之吉。
小泉金十郎一家を創立する。

と「元諏訪神社跡」となっている。鑓水学校開校のことは「六  年」条に見え、そのときは「北ノ谷」にあった。その後「永泉寺本堂」を経て現在の諏訪神社の、子ノ神谷戸を挟んで南側の尾根の先端部、鑓水2018番地の「元諏訪神社跡」に移ったのである。
 以後、道了堂に関する記述は全くなく、例えば堂守老婆殺し等には触れるところがない。
 さて、以上の記述により、道了堂に元、板木谷戸の浜道にあった妙見堂の妙見菩薩が安置されていたことが分かる。しかし、10月7日付(103)に引いた山田桂子「「絹の道」をゆく/――東京・八王子市鑓水にて――」にあるような「ご本尊」としてではない。また、本書では「妙見堂を移築したもの」が道了堂、と云うことになっているが、山田氏は、東京都水道局鑓水給水所の位置にあった「蚕影神社」の社殿として使われた、としている。
 小泉氏は94頁下段「年表作成参考資料」として16点挙げるうち、最初の「一、鑓水共有文書/一、大塚勇家文書/一、小泉栄一家文書/一、小泉一二家文書/一、永泉寺文書/一、篠崎佳一郎家文書/一、町田市山本二吉家文書」の7点が古文書だから、根拠のないことではないのだろうが、道了堂が「妙見堂を移築したもの」と云う説明は他には見えず、少々不安がある。
 そして、道了堂に妙見菩薩が安置されていたこと、そして妙見堂が移築されたことが共通しながら、やはり本書とは食い違っていると云う他はない山田氏の説明は、一体何に基づいているのであろうか。山田氏は昭和55年(1980)11月20日、道了堂を訪ねた後、小泉家も訪れているのだが、そこで道了堂についても説明を受けただろうか。
 まだ見ていない文献も少なくない。今後とも、探索と紹介を続けるつもりである。時間ばかり掛かって中々結論には至らないが。(以下続稿)

*1:【2023年11月9日追記】誤入力を訂正した。

*2:この句点は「大」に半濁点のように打たれている。