瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(28)

・法政大学地域研究センター叢書5『歴史的環境の形成と地域づくり』(3)
 4月7日付(27)の続きで、馬場喜信の論文、第一部「第七章 浜街道《絹の道》―歴史的景観の発掘と史跡化―」の「第一節 浜街道《絹の道》の生成から衰退まで」の「(2)浜街道―盛時から忘れられた時代へ」から、道了堂に関する記述を抜いて置こう。冒頭、207頁3~7行め、

 はじめにもふれたように、その浜街道《絹の道》の活況も長くは続かなかった。その経緯を、後掲の〔年表〕/の①に「 浜街道―盛時から衰亡へ」として見てみた。生糸商人たちの協力による鑓水峠道の最高地点大塚山山頂/への道了堂建立(一八七四)や、その賑わいを描いた石版画の制作(一八九三)など、明治前半期の華やかな時代は/しだいに鎮まり、甲武鉄道の開通(一八八九)による鉄道輸送の優位化や、御殿峠道の拡幅・改修(一八九〇)による/陸運ルートの交替、また、鑓水商人たちのさまざまな理由での没落もあって、‥‥


 稿末の〔年表〕を見るに、冒頭、219頁上段14~15行めは、

 浜街道―盛時から衰亡へ
一八七四年(明治七) 大塚山山上に、道了堂が建立される。

となっており道了堂建立がその1条めである。下段15行め~220頁上段16行め、3条めは、

一八七九年(明治一二)ころ 『皇国地誌』鑓水村村誌成る。/ 当時の浜街道と寺社等の概要が記されている。

として以下『皇国地誌』の記述を1字下げで、神奈川往来、諏訪社、永泉寺に続いて220頁上段7~16行め、

 道了堂 ……大塚山ノ絶頂ニアリ明治八年三月東京府/下浅草花川戸町ニ在リシヲ僧渡辺大淳ト云フモノ此地ニ/創立スト云フ
 大塚山(道了堂境内ニ属ス)……山上ヨリ四方ヲ望ス/レバ一目ノ下ニ十二州ヲ望ムベシ……房総ノ諸山……常/陸ノ筑波男体女体……下野ノ日光……上野ノ諸峰……信/州ノ浅間嶽……富嶽……甲相豆ノ諸山……南ハ大洋ヲ臨/ム……多摩川浅川等ノ水路……嗚呼此ノ観百里山川ノ勝/地ニシテ画工モ之ヲ如何スル能ワズ真ノ絶景ト謂フテ可/ナリ」

と道了堂及び大塚山について抄出するが、ここで疑問なのは明治12年(1879)頃成立の地誌に明治8年(1875)3月「創立」とあることに触れずに、馬場氏は明治7年(1874)「建立」としてこの〔年表〕に載せていることである。どういう根拠で明治8年ではなく明治7年としたのか、その辺りがどうも分からない。
 続いて4条め、220頁上段17~18行め、

一八八〇年(明治一三) 谷合弥七ら八王子駅糸商が、道了/ 堂前に「築礎碑」を建立する。


 暫く道路行政や鉄道に関する箇条が続いて9条め、220頁下段9~10行め、

一八九三年(明治二六) 石版画「大塚山道了堂境内之図」/ (故小泉栄一氏蔵)が描かれる。


 道路行政や鉄道に関する3箇条が続いて13条め、15行め~221頁上段7行め、

一九一一年(明治四四) 島村愛次郎編『八王子案内』の/ 《近郊の名所旧跡》に以下の紹介がある。

として、220頁下段17行め~221頁上段5行めに引用、221頁上段2~3行めに、

 道了権現 鑓水峠の絶頂にありて相州小田原なる大雄/山最乗寺道了薩陀の分霊なりと云ふ。境内頗る幽静なり。」

とする簡単な紹介を抜く。最後の2条は史蹟保存について。
 『皇国地誌』については別に取り上げることとしよう。ここでは国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した『八王子案内』を見て置こう。
・島村一鴻 編『八王子案内』明治四十三年十二月二十八日印刷・明治四十四年 一 月 一 日發行・定價金二十錢・熊澤文華堂(熊澤廣吉)森田万花堂(森田眞之助)・二+二+一三四頁
 書名は一頁1行め、編者名は一頁2行めに拠る。表紙には副題「附 高尾山近郊名所」がある。「編者」は奥付には「島村愛次郎」とある。巻頭に水彩画・写真版・「圖全町子王八」、巻末に当時の八王子町の有力な「商舗」の広告が並ぶ。
 道了堂の記述は六一頁8行め~八五頁7行め「近郊の名所舊蹟」の七七頁11行め~七八頁1行め、

◎道了權現 八王子町より小山に通ずる鑓水峠の絶頂にありて相州小田原なる大雄山/最乘寺道了薩陀の分靈なりと云ふ。堂前に高さ數十尺の大錫杖あり。境内頗る幽靜な/【七七】り八王子町より一里餘にして達すべし

とあって、仮に灰色太字にした箇所を馬場氏は省略している。(以下続稿)