瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(33)

・法政大学地域研究センター叢書5『歴史的環境の形成と地域づくり』(8)
 馬場喜信の論文、第一部「第七章 浜街道《絹の道》―歴史的景観の発掘と史跡化―」の「第二節 《絹の道》―その歴史的景観の発掘と史跡化」の「(2) 《絹の道》史跡化への動き―行政・報道・出版など」及び〔年表〕の「④ 《絹の道》史跡化への動き―行政・報道・出版など」について、昨日は他の人が全く触れていない「八王子鑓水道了堂復興趣意書」に関する記述について確認し、現在でも「東京都宗教法人名簿」に記載のあることに及んだ。
 道了堂の解体についてはごく簡単に、212頁9行め、

 一九八三年には、朽ち果ててしまっていた道了堂が解体された。

と述べる。現行の Wikipedia「道了堂跡」項のような「不審火による火災で堂宇が焼損したため」などと云った説明はない。〔年表〕の④にも26条め、224頁下段8~9行め、

一九八三年(昭和五八) 大塚山道了堂の老朽化していた旧本堂が荒廃したため、解体される。

と、飽くまでも老朽化による荒廃に、解体理由を求めている。
 28条め、224頁下段13~14行め、

一九八四年(昭和五九) 八王子市が「絹の道保存のマスタ/ ープラン」の作成に着手する。

とあって30条め、224頁下段17~19行め、

一九八六年(昭和六一) 八王子市〈市史跡絹の道保存整備/ 計画委員会〉が「絹の道保存マスタープラン」をまとめ/ る。【224】


 そしてその結果、225頁上段16~19行め、36~37条め、

一九九〇年(平成二)三月 絹の道資料館が、生糸商人八/ 木下要右衛門の屋敷跡地に開館する。
一九九〇年(平成二)三月 八王子市が旧道了堂の境内跡/ 地を整備して、大塚山公園として開園する。

と、現在の状況が出来上がったのである。38条めも飛ばして225頁下段6行めから226頁下段19行め「⑤ 史跡化の後に―研究の深まりとこれから」及びこれに対応する本文、213頁8行め~215頁11行め「(3)史跡化の後に―研究の深まりとこれから」は今後、必要に応じて触れることとする。
 話を戻して、「絹の道保存マスタープラン」の内容については本文の212頁16行め~213頁7行め、

 さて、その「絹の道保存マスタープラン」には、主として次の四項目があがっていた。
 ① 絹の道の入口部分に駐車場・案内板等を整備する。
 ② 鑓水商人八木下要右衛門の屋敷跡に資料館を建設する。
 ③ 絹の道の路面を豆砂利敷きとして市民の散策の場とする。【212】
 ④ 大塚山山頂を公園として整備する。
 このうち、②の資料館の建設は、一九九〇年三月に「絹の道資料館」が開館して実現した。この資料館は、生糸/商人八木下要右衛門の屋敷跡に建てられ、八木下家の母屋を模した鉄筋コンクリート造り平屋建ての建物である。/館内には《絹の道》や鑓水商人についての解説パネルが展示され、敷地内には往時の石積み水路や使用人の住居跡/なども復元・保存されている。この資料館の開館と同時に、④の計画も実現して、大塚山公園が開園した。もと道/了堂の立っていた境内の跡地を整備した公園である。先にみた寺院としての復興計画が流れて、市によって公園化/されたことは、歴史的景観の保全のために最良の策であったといえよう。


 しかし、殺人事件に触れなかったように、この頃、心霊スポットとして知られるようになっていたことにも触れていない。当然と云えば当然なのだけれども。
 すなわち、馬場氏が本稿を執筆する前に、1996年7月には2月6日付(01)からしばらく検討した小池壮彦『東京近郊怪奇スポット』に取り上げられ、2003年10月27日には2月19日付(13)にDVDのパッケージを貼付した映画『ほんとにあった!呪いのビデオ THE MOVIE2』が公開されている。この映画はやはり未見のままだが、内容を紹介したサイトに拠れば「首なし」の題で取り上げられており、当時既に「首無し地蔵」が有名になっていたことが察せられる。
 これをさらに有名にした稲川淳二の「八王子の首無し地蔵」は、2011年6月29日発売のDVD『稲川淳二の絶叫夜話~怪奇談~』に収録されている。

 稲川氏が何時から語り始めたのかはまだ突き止めていない。なお、稲川淳二企画・原案の1996年8月16日公開の映画『心霊』に再現ドラマ形式の「首なし地蔵」と云う話が収録されているが、これは小泉八雲「幽霊滝の伝説」の翻案らしい。(以下続稿)