瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(124)

・地域批評シリーズ(4)
 10月26日付(123)の続きで、①B5判「第1章 八王子市ってどんなトコ?」≒②文庫版「第2章 多摩を束ねた八王子の歴史」章末の「八王子ミステリーツアー」に言及されていた「本編」の記述を見て置こう。
 道了堂の記述があるのは3節め、①44~45頁②79~83頁「花街として賑わった「絹の道」の宿場町」である。なお1・2節めは10月27日付「八王子城(16)」に取り上げてある。
 ①44頁の上2段は「八王子市内の絹の道MAP」で、②83頁(全頁)に主要部分を拡大し、左(西)を広く右(東)も若干削って収めている。文字を入れ直していないので左「西八王子駅・士森公園・田駅・王子みなみの駅」右「沼駅・絹ヶ丘団地・高嶺団地」の、仮に灰色で示した文字が(一部)切れている。①3段め1~2行めに「絹で一攫千金! /鑓水商人の夢のあと」の見出しがあってこの節はこの1項のみ。同じ見出しが②79頁3行めには1行で入っている。
 ①45頁2段め2行め②81頁4行めまで、幕末の絹の道と鑓水商人の繁栄について述べ、①45頁2段め3行め~3段め9行め②81頁5行め~82頁1行めに八王子の花街について述べる。そして①45頁3段め10~21行め②82頁2~7行めに絹の道の衰退と鑓水商人の没落について述べている。②には写真はないが①には13行分取って1段め左「かつて多摩最大の花街として賑わった八王子黒塀/通り。東京郊外で唯一現存する花街でもある  」2段め左「大塚山公園は夜景スポットとしても有名だが、夜/に行くにはかなり勇気のいる雰囲気だ     」と下にキャプションを添えた写真を載せる。尤も後者は大塚山公園と違って随分平坦で、八王子市松が谷66番地の「大塚公園」の入口らしい。そう思って検索するに、Wikipedia「大塚公園 (八王子市)」に同じ場所を撮した写真が「公園入口」として掲載されていた。
 最後の段落、①45頁3段め22~32行め②82頁8~12行め(改行位置①「/」②「|」)に、

 現在「絹の道」は、御殿橋から/大塚山公園の「絹の道碑」前まで/の約1・5|キロメートルが、市の/史跡として保存されている。この/大塚山には、かつて鐘|水商人によ/って道了堂というお堂が建てられ/ていた。大塚山公園整備のために/|現在は取り壊されて、お堂の跡し/か残っていないが、ここも全国的/に有名な心|霊スポットになってい/るのは「八王子のお約束」だ。

とある。一昨昨日の八王子城跡、一昨日の大和田刑場跡に関する記述には少々疑問符を呈したのだが、この記述は非常に正確である。道了堂は「大塚山公園整備のために現在は取り壊され」たのであり、不審火で焼損したためではない。大体、民有地の建造物を行政が勝手に取り壊したり出来ないことは、現在もワイドショーや夕方の民放のニュース番組などでたまに取り上げられる、倒壊しかけゴミが道路にあふれ、木の枝が通行の邪魔になるなどの所謂「ゴミ屋敷」問題などの報道を見れば分るはずである。Wikipedia「道了堂跡」項に私が加筆訂正した通り、八王子市が「大塚山公園整備のため」に予算を付けて遺族から土地を買収したから解体することが出来たので、そうでなければ廃屋になって屋根が落ちようが、そして私は火災には遭っていないと考えているのだが、仮にそのような事実があったのだとしても、市が勝手に取り壊したりするようなことは出来ないはずである。全くのところ、確たる根拠のないところから疑問も反論も出ないまま何となく出来上がってしまった説明に過ぎぬのである。――どうしてこの「焼損したため市が解体」説が生じたかについては、もう見当を付けてはあるから(これまでの当ブログの記事で殆ど説明済みのつもりなのだが一向に浸透しないので)遠からず記事にしたい。
 ①45頁4段めは囲みの横組みのコラム「鑓水商人の栄華の名残を/残す絹の道資料館」で②には採られていない。左に透明な箱に繭をたくさん詰めた写真があって、右に題と本文、末尾(8~9行め)に「‥‥。ちなみにミス/テリースポットの大塚山公園もすぐそば。」とある。①41頁の「MAP」では大塚山公園と絹の道資料館は、めじろ台駅山田駅間及び北野駅~長沼駅間よりも離れているように見えるのだけれども。(以下続稿)