瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(54)

・馬場喜信『八王子片倉台の地誌』(3)
 (初版と恐らく同内容の)再版と、追補版の比較の続きで、今回は追補版について。
 追補されているのは、5月14日付(52)に示した目次からも察せられるように、まづ56~62頁「追補⒈ 完成した片倉台のことなど」と63~67頁「追補⒉ なおもつづく開発の時代」の2節で、前者は追補版刊行までの開発によって変化したところを、そして後者は今後予定されている開発事業について述べている。
 さらに目次に補われていない、80頁「追補版 あとがき」が、参考文献と附図の間に挿入されている。これは、巻頭か85頁「あ と が き」の後に置くのが適当だと思うのだけれども、空き頁に挿入している。8行め2字下げで「一九八五年 四 月一〇日」付、執筆開始時から、2行め「早くも七年が過ぎ」、3~5行め、

‥‥。その/間、片倉台とその周辺は、大きな変貌をとげ、いまもまだその過程のまっただ中にあ/ります。本文の末尾に二節を補って、それらの動きを追ってみました。

とある。
「追補⒈ 完成した片倉台のことなど」は⑹項にわたっているが、59頁2~11行め、

 ⑶ 絹の道(一六頁)と道了堂(二三頁)についても、現状を記しておこう。幸い/といおうか、どちらも自然のなりゆきのままに、往時の姿をとどめている。
 絹の道は、大塚山から鑓水へ向けての七〇〇メートルの区間が、八王子市の保存計/画の対象とされ、道の両側三〇~五〇メートル幅を買収して将来に残すプランだとい/う(朝日新聞昭和五九年六月二七日付)。道了堂については、昭和五三年以来、復興/計画が進められていたようだが、今日まだ実現していない。御堂の荒廃はますます進/み、もはや盛時の姿をしのぶこともできない。むしろこの刻々のありさまを見とどけ/ていくことが、絹の道とともに生き、栄えたこの御堂の歴史にはふさわしいのかもし/れない。そして、大塚山のたたずまいを、絹の道と一体のものとして保全してゆくこ/とが大事だと思う。


 さて、この記述は「追補版 あとがき」の昭和60年(1985)4月10日現在、より慎重に検討すれば追補版の中で最も新しい日付60頁11~12行め「(朝日新聞昭和五九年一一月一九/日付夕刊)」を目安にしても良いが、とにかく昭和60年(1985)春の状況として置けば良かろう*1
 馬場氏は平成3年(1991)の『八王子事典』以来、道了堂の解体を昭和58年(1983)として来た。これはかたくら書店新書45『浜街道 「絹の道」のはなしとその論文版「「浜街道《絹の道》―歴史的景観の発掘と史跡化」も同様であった。
 ところが、これらに先行する本書の追補版では、昭和60年(1985)春には「荒廃はますます進み」ながらも「自然のなりゆきのままに、往時の姿をとどめている」と記していたのである。「この刻々のありさまを見とどけていく」覚悟を示していた馬場氏が、この後行われたはずの道了堂解体を「見とどけ」なかったのかどうか、今一度記録類を確認して欲しいところである。とにかくここに、道了堂の昭和58年(1983)解体説は、その根源となったらしい馬場氏本人の記述によって否定されることをここに指摘して置きたい*2
 このように書くと、こんな誤りを犯していた馬場氏の別の記述をそのまま信じるのだって危ういのではないのか、と思う人もいるかも知れない。もちろん、馬場氏だけではない。更に根拠を挙げる用意がある。遠からず記事にするつもりである。
 さて、Wikipedia「道了堂跡」項は、久しく2月12日付(07)からしばらく検討した最終更新 2021年12月24日の版のままであったが、最近(2022年5月10日)HN「BEREEVE」によって、次のような加筆がなされた*3。薄い灰色太字が加筆、太字は書き換え。

‥‥、1983年(昭和58年)には不審火による火災で堂宇が焼損し倒壊の恐れが強くなったため、のちに八王子市によ道了堂は解体された。


 従来「不審火による火災」から「八王子市によ」る「解体」までを全て「1983年(昭和58年)」としていたのを、当ブログが昭和58年(1983)解体は誤りであると繰り返したのを参照したのかどうか、解体時期をそれ以降にずらすような書き換えがなされている。
 しかし、この「不審火による火災」は、事実なのだろうか。
 昭和58年(1983)焼失、もしくは焼損説は、2月15日付(10)に見たHN「Kanachan」の根拠を示さない「1983年には不審火による火災で堂宇が焼失したため」との加筆(2017年2月10日、14日修正)を、2018年1月7日にHN「東京日和」が「焼失」ではなく「焼損」から「解体」へと合理化したもので、そこに今月、上記のようにHN「BEREEVE」」によって(当ブログの指摘に基づいてかどうかはともかく*4)更なる合理化が為されたのである。次第にマシにはなっているとは云えるだろう。しかし、そもそも昭和58年(1983)と云うのは道了堂解体年として持ち出されてきた年だったはずなのである。――このような根拠に基づかない辻褄合せの合理化に基づく書き換えを見ていると、この一連の流れには、むしろ新たな与太説明の誕生とその成長を目の当たり見る思いがするのである。
 そこで、そろそろ Wikipedia にも手を入れることとした。手始めに昭和58年(1983)の不審火に[要出典]タグを附して置こう。この追補版で馬場氏が不審火について何ともしていないこと、そして追補版の翌年に刊行された書籍にもその記述がなく*5、掲載されている写真にも(全部が写っている訳ではないが)焼損が認められないこと*6からして、「不審火による火災」があったとしてもそれは昭和58年(1983)よりもっと後年の事件の記憶違いか、さもなければ全くの誤謬であるか、そのどちらかとしか思えないのである。(以下続稿)

*1:【6月22日追記】「は」を削除。読点もしくは「である」を入れるべきだが一先づそのままにした。

*2:【6月22日追記】「ここに」が重複しているので1つ削除した。

*3:アカウントを作成した直後にこの加筆(のみ)を行っているので、この加筆をするためにアカウントを作成したようである。

*4:5月23日追記】当ブログではなく先月刊行された川奈まり子『八王子怪談 逢魔ヶ刻編』に拠っているらしい。それも違うかも分からんけど。――この川奈氏の新刊の記述には、特に道了堂の不審火と解体年に関して(当ブログで以前指摘した「母校の怪談」と同様・同根の)問題があると思っている。いづれ明確な根拠を以て批判を加えるつもりである。

*5:6月22日追記】昭和61年(1986)9月刊、かたくら書店新書20『絹の道』。道了堂の状態に関する記述は6月10日付(71)に纏めて置いた。

*6:6月22日追記6月11日付(72)に検討した。※写真の転載はしていない。