瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(68)

・かたくら書店新書20『絹の道』(2)
 さて、本書は昭和61年(1986)9月、道了堂解体に最も近い時期に刊行され、その最後の姿を止めた本なのだけれども、これまで殆ど注意されていない。
 それは、以下に述べるように、本書が何を伝えたいのかが伝わりづらい内容と構成になっていることに要因があるように思われる。
 しかし、私のような、書物を利用する場合、まづその本がどのような意図で、どのような人によって、何の必要があって書かれたものだか、一通り検討しないでは安心して使えないと思う人間にとっては甚だ興味深く、愛すべき本なのだけれども。
 尤も、当初、必要のある箇所だけ拾い読みをしていたときには、本書の意図がどうにも摑みづらく、その後、何度も拾い読みを繰り返して本書の全てに目を通し、更に色々な絹の道・道了堂に関する書物にも目を通して漸く、本書の内容と構成がこのようになっている理由が分かった気がしたような按配なのであった。
 いえ、本書の意図については、前付(頁付なし、4頁)「目  次」に続く1~4頁、尾崎正道(八王子郷土資料館運営協議会委員)「はじめに」に大体意を尽してある。その中でも、2頁11行め~3頁2行め、

 昭和六十年十一月三日の文化の日には、地元の打越歴史研究会のみ/なさんと「絹の道を歩く会」を企画し、百五十人もの人達の参加をえ/ることができました。【2】
 この歩く会を催す目的は、一つには、打越歴史研究会を世間に知ら/せること。この研究会は、新旧の住民が歴史を学び、‥‥

とある昭和60年(1985)11月3日に約150人の参加を得て開催された絹の道を歩く企画が本書刊行の大きな切っ掛けとなっていることは、85~104頁「七、 絹の道・鑓水の里を歩いて」の章から察することが出来る。
 この章は、85頁の扉に大きく「慈眼寺にて説明をきく参加者(坂元和夫氏提供)」と下にキャプションの附された、約30人が写った写真に始まり、以下、87~88頁「① 幻   想」市村正雄(南浅川町)、89~93頁「② 絹の道に参加し、新公園に望む」岩瀬マグダレア博子(多摩市)、95~97頁「③ 絹の道を歩いて」三井国次(旭が丘)、99~100頁「④「絹の道・鑓水の里」見て歩きに参加して」安彦春江(絹が丘)、101~104頁「⑤ 「絹の道・鑓水の里」/見て歩き参加者名簿」※名前は申し込み順、と続く。
 すなわち、この企画の正式名称は「「絹の道・鑓水の里」見て歩き」だったらしい*1のだが、⑤の名簿を見るに、扉の写真の坂元氏は「15. 坂本 和夫/16. 坂本 洋子」と見えている。この名簿には144人の名前が列挙してあって、①「140. 市村 正雄」②「89. 岩瀬 博子」③「17. 三井 国次」④「116. 安彦 春枝」とそれぞれの節の執筆者の名も見えており、内容からして一般参加者たちが後日送った感想文を集めたものと思われる。とにかくこの企画の記念誌のような按配なのだけれども、しかしこの章だけでは企画内容がどうにも分かりにくいのである。
 企画した打越歴史研究会による、この企画の説明が、はっきり為されていないのである。
 いや、ない訳ではない。先に見た「はじめに」がそうだし、「七、 絹の道・鑓水の里を歩いて」の扉(85頁)と見開きになっている84頁に、一番、それらしい説明がある。これは59~84頁「六、絹 の 道 の 周 辺」の章の最後で、この章は61~64頁「① 土井寺跡より板碑の出土について」岩田久雄(打越歴史研究会会長)、65~67頁「② 湯 殿 川 に つ い て」青木貞一(打越歴史研究会代表)、69~74頁「③ 中谷戸弁天様――小山綿治氏に聞く――/④ 奥 の 宮 探 訪 記」花房征夫(打越歴史研究会)、75~77頁「⑤ 道 了 堂 付 近」藤森治郎(打越歴史研究会)、79~81頁「⑥ 打越地区と絹の道」天野七郎(打越歴史研究会)、83~84頁「⑦ 絹の道を歩いて」井本肇(打越歴史研究会)と、打越歴史研究会の会長・代表と会員の寄稿だが①~④は絹の道には関係がない。内容的にも会報「打越」に載せたものを記念に転載したような印象で、却って打越歴史研究会の性格を探る手懸りになりそうである。――それはともかく、各節は1頁めが扉で2頁めから本文なのだが、そのうち⑦の本文冒頭、84頁1~3行めに、

 十一月三日打越歴史研究会により、絹の道のハイキングが催され当/日申込の受付を行っておりまして、その参加者の多さにびっくり致し/ました。

とあり、7~9行めに、

‥‥、慈眼寺~道了堂~八木下要右衛門宅跡~子の神社~/永泉寺~小泉屋敷を見、諸先生の説明を聞いて、昔、絹が如何程に重/要なものであったかを理解できる様な気がしてまいりました。

と、当日のコースが示されている。しかしこれは「はじめに」の次くらいの位置に、企画立案・参加者募集・当日の様子・訪問地の概要・講師とその話の概要で1章作って纏めて示して置いて欲しかった内容である。これがないので、どうもすっきりしないのである。
 84頁上欄に「「絹の道ハイキングに集まってきた人々」を橋の上(?)から写した写真があるが、この他にも当日撮影された写真としては、先に触れた85頁の片倉町慈眼寺での写真、4頁上欄「絹の道ハイキングに集った参加者達」、91頁上欄「「絹の道ハイキングで説明を受ける参加者達/   (説明者 小泉栄一氏)」、101頁上の小泉家屋敷の生垣の内側に勢揃いした集合写真がある。101頁の写真は1人1人の老若男女が分かる程度に写っていて、中高年が殆どだが、男子児童や中学生(もしくは高学年)の男女も見受けられる。(以下続稿)

*1:5月18日付(56)に引用した、かたくら書店新書44『野猿峠』23頁「昭和六一年五月一八日、打越歴史研究会主催第三回歴史見て歩き―永林寺を訪ねて―」からして、この「絹の道・鑓水の里」は第1回の「歴史見て歩き」だったようだ(第2回かも知れないが)。