瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(69)

・かたくら書店新書20『絹の道』(3)
 昨日、本書は刊行の切っ掛けとなった企画及び舞台である場所について、きちんとした説明を欠いている、と指摘したのだけれども、実は、それを意図した章は存在している。
 「一、絹の道とは何か」の章、扉(5頁)には「絹の道」碑のイラスト(7.0×7.0cm)があって茂みの前に建ち、右手には石段も描かれている。裏表紙中央のカットはこのイラストから「絹の道」碑だけを切り取ったものである。6頁はゴシック体で上部にやや大きく「絹 の 道 碑」とあって下に「「絹の道の遺跡と現代の記録から転載」と出典を示すが『絹の道の遺跡と現状の記録』が正しい。これは写真ではなく拓本で縦に3行、右に「絹」「の」「道」、中央に「東京ヽ多摩ヽ有志」、左に「一九五七年四月」とあるが、キャプションは右の1行の下に「正面」、左の2行の下に「側面(右)」とあるが8頁5行めに拠ると「一九五七年四月 東京 多摩 有志」と刻まれているのは「裏面」とのこと。7頁にまた扉があって、中央やや左にやや大きく「一、絹の道とは何か」その左に3字ほど下げて「――道了堂を歩いて――」と副題、1行ほど空けて左下「佐 藤   広    / (郷土資料館学芸員)」とある。そして本文、8頁から13頁まで「絹の道」碑から始めて墓地の墓石まで、残されている石造物について記録している。そして14頁1~4行め、

 この稿は編者の意図に沿わないものであったかもしれないので、最/後に絹の道に関する主な文献を紹介しておいた。絹の道一般について/は、それらの文献をごらんいただきたい。
                (八王子市郷土資料館 学芸員

と断って、5行め「―」16箇と空白15箇を交互にした仕切りで6行め「朝日新聞社『多摩の百年 下 絹の道』 一九七六年十一月」を始め5点の文献を挙げる(~12行め)。最も詳しくこの辺りのことを書いていると思われる辺見じゅん『呪われたシルク・ロード』は挙がっていない。
 それはともかく、この断り書きは中々に興味深い。佐藤氏は「「絹の道・鑓水の里」見て歩き」に参加していない。本書では昨日見た「六」章の①、打越歴史研究会の岩田久雄会長の寄稿に、62頁3行め「昨年」すなわち昭和60年(1985)、岩田氏宅の「土手の改修工事」中、4~5行め「九月十三日」に「板碑三枚その/他が出土」、5~7行め「‥‥。早速本会員でもある市会議員尾崎正道先生に連絡/し、盛吉順一八王子市郷土資料館長、土井義夫、佐藤 広両学芸員の/諸先生に鑑定して頂いた結果、‥‥」と名前が見えている。――この縁から、専門的見地から絹の道についての概説を執筆してもらうつもりで寄稿を依頼したのであろう。ところが、どうもその意図が上手く伝わらなかったようで、佐藤氏は道了堂の石造遺物を紹介する文章を書き送った。当時、1月31日付「八王子事典の会 編『八王子事典』(3)」に見たように、前年の早春から佐藤氏は『八王子事典』編纂のため、かたくら書店の田原勘意としばしば顔を合わせていたので、本書の校正刷を見せてもらう機会があったのであろう。そこで初めて、本書に絹の道の概説がなく、自分の文章がそれと期待される位置に配されていることに、気付いたのではないか。しかし既に校了間際だったものか、追加や書換えが行える段階になかったので、急遽、余白として写真が掲出されるだけだった14頁に、前引の断り書きと、絹の道の概説となっている文献5つを追加で詰め込んだのではないか、と想像されるのである。いや、こうとでも考えない限り、最後に「編者の意図に沿わないものであったかもしれない」等と断った理由が理解出来ないと思う。
 本書全体の構成を考えれば、この章には佐藤氏の「道了堂を歩いて」の前にもう1節、絹の道の意義を強調し、それを再認識すべく実施された打越歴史研究会の「「絹の道・鑓水の里」見て歩き」の概要を紹介した、打越歴史研究会の会員による文章があるべきだったと思う。これを欠いていることが、本書の印象を散漫にさせ、参考資料としての価値を実質以上に低減させる結果に繋がっているように思われ、甚だ残念である。
 前回見たように91頁の写真に、鬱蒼と茂った斜面を背景に、拡声器を手に説明する小泉家屋敷の当主・小泉栄一が写っている。この小泉氏の説明の場所と内容については、参加者の感想を集めた「七」章の①から窺うことが出来る。その後半の段落(88頁8~12行め)に、

 〝絹の道歩き〟をおわって小泉屋敷近くからバスへ乗った私は、う/つらうつらとしていたらしい。昼食前に大塚山の絹の道の道標前で小/泉先生から伺ったこの山で起きた〝初老の美しい尼さん堂守〟殺人事/件は、私の夢の中で増幅され、バスが北野駅へ着く頃には、尼さんは/いつか藤村志保さんのキリッとした顔立ちに代っていた。

とあり、小泉氏が説明していた場所が「絹の道」碑の前で丁度昼時分に、「初老」でも「尼さん」でもなかったはずなのだがとにかく昭和38年(1963)9月10日の堂守老婆殺しについても、説明していたことが分かる。――そして、どうして、講師として招いていた小泉氏の文章が、本書に載っていないのだろう、と思うのである。話をするのは良いとして、文章に残すことは固辞したのだろうか。小泉氏にはかたくら書店新書37『絹の道 やり水に生きてと云う著書があるが、道了堂のことは名前が出て来るだけで、全く取り上げていない*1。(以下続稿)

*1:6月13日追記】別の著書で非常に詳しく取り上げていた。この著書については、近々詳述するつもりである。