瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(72)

・かたくら書店新書20『絹の道』(6)
 昨日の続きで、本書に掲載されている道了堂の写真について確認して置こう。
 1つは12頁上欄に「道了堂(一九八六年)」とのキャプションを右(下詰め)に添えた写真で、南南東を向いた堂宇を南南西から写している。堂宇の左側面(左右は外側から見て記述。西南西側)を支える柱はしっかりしており、南側に突き出した隅棟の隅木とそこから均等間隔に張り出した並行垂木が美しい。柱は3本で、柱と柱の間の壁もしくは扉は外れている。但し鴨居と天井の間の板壁には損傷はないようで、その中央の柱の左側(後ろ側)に縦長の奉納額が1つ残っている。
 堂内には何も残っていない。向こう側の壁もなくなっている。内陣の、後ろに突き出した辺りの壁は横木が幾らか残っている。
 注意されるのは向拝柱が礎石から外れて向拝の屋根が崩れ落ちていることである。――このことの意味するところ、そして何時から崩れ始めていたのかは、別に検討することにして*1、ここでは本書の内容に関わる点に限って触れて置こう。すなわち、昨日見た「」の八王子市議会議事録にて、尾崎正道議員と田中義一社会教育部長が「道了堂」と言わず、専ら「大塚山」の保存・買収・整備、と言っているのは、屋根が崩れ始めて修復不能になっていた道了堂は、既に解体撤去が前提となっていたからであろう。しかし、「崩壊寸前」であってもまだ道了堂は存在していたので、新聞記事では一般には通じにくい大塚山ではなく、良く知られている道了堂を主にしたのであろう。
 2つめは76頁上欄に「荒れはてた道了堂」とのキャプションを右(下詰め)に添えた写真で、北西から写しているので後ろに突き出した内陣の背面と左側面がしっかり写っている。左側の脇間の背面も写っているが、内陣の左側に2~4m位に伸びた木が何本もあってやや見えづらい。しかし背面や内陣の側面には横木が残っているのがはっきり分かる。年が入っていないが、12頁の写真と同様、周囲の木々の葉が生い繁っているので、初夏以降の撮影――12頁と同じ昭和61年(1986)の撮影ではないかと思っている*2
 なお、本書の元になった打越歴史研究会主催の企画「「絹の道・鑓水の里」見て歩き」当日の道了堂の写真がないのは、約150人の参加者でごった返していて建物を綺麗に捉えられなかったこと、そして堂宇正面の向拝の屋根が崩れていて、集合写真には適さなかったこと、などが考えられよう。
 それはともかく、この2つの写真とも、焼損は全く認められない。
 そもそも、当時の道了堂のように、壁が落ちて柱と抜けかけた床、そして屋根だけになった建物に火が付いたら、そのまま全焼しそうなものである。いや、Wikipedia「道了堂跡」項の2017年2月の加筆は「不審火による火災で堂宇が焼失」としていた。しかし、その後も堂宇は存在していて、多数の人が目にし、こうして写真にも撮られている。
 Wikipedia「道了堂跡」項の2018年1月の加筆では「焼失」が「焼損」に改められている。これを信じるとすれば、付け火をした不埒者がいたが、幸い、木材が湿気を含んでいてボヤで済んだと云うことになるのだろう。藤森氏が撮っていない、堂宇右側(東北東側)が焦げていたのかも知れない。しかし、常識的に考えると、左側(西南西側)ばかりで撮ったのは、反対側は日陰になって暗かったからだろう、と思うのだけれども。
 或いは、藤森氏がこれらの写真を撮った後で火災に遭った――つまり、『八王子事典』が昭和58年(1983)に解体された、と書いている*3のに釣られて、解体直前にあった「不審火による火災」を昭和58年(1983)としてしまったのかも知れない。つまり、実際の火災は昭和61年(1986)夏以降に起こっていた可能性が考えられる。
 しかし、もう良いだろう。
 私は5月15日に Wikipedia「道了堂跡」項のこの辺りの記述、「‥‥、1983年(昭和58年)には不審火による火災で堂宇が焼損し倒壊の恐れが強くなったため、のちに八王子市により道了堂は解体された。」の太字にした箇所に下線を引いて[要出典]として置いた。本当は「のちに」まで線を引きたかったのだが、それはともかく、それから1ヶ月近く経つが何の反応もない。
 私はこうして(殆ど閲覧されておらず、ほぼ何の反応もないが)確実な根拠とともに、蓋然性の高い可能性を提示している。もし、間違っていると云うのであれば、より確度の高い資料を提示して反論していただきたい。それが出来ないのであれば、今後はせめて、昭和58年(1983)に不審火により焼損したため解体された、などとインターネット上に無批判に垂れ流さないでいただきたいのである。――と云って、もっと簡単に否定出来るはずの立教大学助教授教え子殺しを道了堂と結び付けたネット情報の新顔が、未だに後を絶たないのだけれども*4。(以下続稿)

*1:10月16日追記10月7日付(103)に見たように、昭和55年(1980)11月20日には崩れていた。なお、正面から写した写真が掲載されている書物を6月12日付(73)に紹介したが、図版は転載していない。

*2:もっと前に撮影されていた可能性もあるが、打越歴史研究会の発足が昭和60年(1985)で、11月3日の「「絹の道・鑓水の里」見て歩き」を中心に、本書刊行に向けて写真担当の藤森治郎が道了堂付近を重点的に撮影して回ったものが使用されているものと思われるから、その前の撮影である可能性は低いと思う。12頁の写真を撮影しに行ったときに、同時に撮影されたものと見るのが自然だと思うのである。

*3:これまで『八王子事典』の「道了堂」項を執筆したのは馬場喜信だろうと仮定して述べてきたが、本書の「」章を担当している佐藤広も当時、馬場氏とともに『八王子事典』編纂を始めていたはずである。馬場氏・佐藤氏とも、昭和60年代に道了堂が存在する(なくなっていない)ことを自ら書いているのに、どうして『八王子事典』は昭和58年(1983)解体としたのか、いよいよ謎である。

*4:後述するように、道了堂の辺りでも捜索は行われたらしいが、もちろん、何も発見されなかった(はずである)。