安倍元総理が暗殺された。いよいよ戦前に戻ったようだ。戦前のような世界を望んだように見える人物が、戦前みたいに殺されるとは、皮肉なものである。
1時間くらい経って同僚が気付いて職場で広め始めたのだが、帰宅して Twitter を見るに、ビジネス右翼と目されるような人々が、犯人は元自衛隊だが18年前に3年くらい在籍しただけで、みたいなことを唱えていて、何でそんなことを必死に喚いているのかよく分からなかったのだが、どうやら当初、左翼がどうの在日がどうのと例によって陰謀論を唱えていたらしい。何も分からぬ段階から憶説を垂れ流すのは好い加減にしたらどうか。私が怪異談について文献的検証を行っているのも、同様の不満からである。「徹底調査」などと賞賛されているような人であっても、私にはどうもそこまでとは思えないのである。大体が、怪異を真に受けているところからしてそういう調査力や判断力に疑問符を打たざるを得ないのだけれども。そう云う連中があらぬ尾鰭を付ける*1のを見るに忍びないので、そこまでのものじゃあないことを検証しているのである。
私は元総理を当ブログで度々批判して来た。別に隠すことではないので興味がおありなら右上に出る検索窓に「総理」もしくは「首相」と入れて検索されたい(別の首相もヒットしてしまうが)。オリンピックを利用してジリ貧の大手新聞を完全に支配下に置いたと云うのが私の見立てである。夕方の報道番組を見る気がしないので、午後のドラマ再放送の録画でも見ようと思ったらワイドショーが録画されていて、午後はEテレとテレビ東京以外はみんな同じような放送をしていたらしい。確かに大物政治家ではあるけれども、投票日前々日にここまで内容が偏って良いものだろうか。死亡後の報道はいよいよ見る気がしないので殆ど見ていない。
野党を批判する人がいる。しかし、このような人物を戴き、虚偽答弁の数々を窘めることすら出来なかった与党をどうして支持出来ると云うのか。最近ではあからさまに支持団体に利益を回し、還流させていることがアベノマスクや中抜きのためのクーポン・ポイント付与などで明らかだと云うのに支持している人の気が知れない。
そして、マスコミ各社も政権の広報機関みたいになってしまった。今晩のNHKスペシャルもお粗末なものだったらしい。新聞を読まなくなって久しいが、どうせ碌な報道をしていないのだろう。解約して置いて良かったと、つくづく思っている。(7月9日晩)
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奈良県警の警備態勢が問題になっているみたいだが、長野県に応援に行く予定が、例の偽名中絶同意書の候補者(自発的に下りるべきだし下ろすべきだろう。当選したらどうするんだ。まぁ東京都の2人も碌でもないことが明らかになっているのに当選しそうだが)なので取り止めて、直前に奈良に変更したらしい。当初、そんな大物を招ぶつもりでなかったからあんな駅前でやっていたのだろう。元総理が来るからと云って急に金の掛かる会場を押さえる訳にも行かぬだろうし。
昨晩、私は「怪異を真に受ける」ことを批判するようなことを書いたけれども、怪異を否定するのかと云うと、否定はしない。色々な積み重ねの中でそう云うものが出来上がって、そう云うものが見えるような気がする、いや、見えてしまうような人も出て来るのだろう。
だから、私は怪異の体験談を否定しない。当人が見たと云うのだから、確かに見えたのだろう。しかし、そんな個人的な体験を共有しろと言われても困る、出来ません、と云うまでである。
だから私にとっては、どこそこの廃寺に幽霊が出ると云う噂がある、と云うのは検証の対象になり得るけれども、その廃寺で幽霊を見たとか云うのは対象に出来ない*2、と云っているのである。
要するに、解釈の問題だと思うのだ。
霊能者や、怪談作家や怪談師と云った人々は、現象の解釈に怪異を介在させて気にならない人なのである。私は、気になる人間で、いつからそんな解釈が擡げて来たのかが気になるので、複数の文献を比較し、早い時期の文献や、話の内容に変化が生じた時期の文献を徹底的に調べる。しかし、気にならない人たちは実にあっさりと与太話っぽい説明を信じてしまう。いや、何処まで信じているか分からないし、ネタとして愉しんでいるだけかも知れないが、だからと云って好い加減な説明を振り撒いて良い理由にはならないはずである。
当ブログを始めてから、私には怪異はメリメ風にしか扱えないことがいよいよ明確に意識出来るようになった。当ブログを始める前、怪談の商業誌に考証記事を寄稿したことがある。稿料をもらって書いた唯一度きりの経験だけれども、父(1938生)に知らせたら注文して取り寄せてくれたのだが、一読「私は戦後の少年時代、科学の発展が迷信を打ち破り、世の中を明るくして行くのを見て育ったので、科学を絶対的に信頼している。だから怪談の専門誌があることに驚かされた」と云った内容の葉書が届いた。驚くも何も、兄(1968生)が中学高校くらいまで「ムー」を定期購読していたから(私は読まなかったが)そのような世界があることくらい父も知らぬ訳ではないはずなのだが、私も怪異など信じていないながらも余りにも生真面目な父の葉書の角張った文字と内容を倅として何とも懐かしいものとして眺めたものだが、以来10余年、私もいよいよ親父に似た心持ちになりつつあるようだ。
よく怪異小説を人間の心の深さやら世界に対する恐れなどと云った角度から評価しようと云う向きがあるが、私には、科学が発達していなかった時期に、宗教が世界の全てを神仏や霊なぞで説明してしまったような、今となっては前近代的な安易な解釈をしているようにしか思えないのである。だから、怪異談や怪異小説を読んでも、興味深いとは思うけれども怖いとは少しも思わない。人間或いは世の中に存する、見てはならない深淵を覗くような、などと云う讃辞を読むとむしろ逆ではないか、と思うのである。
すぐに陰謀論にしたがる人たちと選ぶところがないのではないか、と。元総理を狙撃した犯人は、母親が統一教会に絡め取られて破産させられたことを恨みに思っていたそうだ。――そう、統一教会の霊感商法と、怪異を弄ぶ人たちと、何処が違うのだろうか*3。いや、私らの若い時分には、霊感商法に対する警戒の呼び掛けがあったように思うのだが、いつの間にか社会全体がそういったものに触れなくなって来たように思う。私も大学に入った当座、アパートの一室に連れて行かれて「霊を信じるか」みたいなことを言われた経験がある。しかし、こいつは駄目だと思われたらしく20分だか30分色々聞かれた挙句にお前は度し難い、みたいなことを言われて解放されたのだが、オウム真理教などを経て、却ってそういったことへの対応が、緩くなって来たように思うのである。その意味でもあの事件は大事件だったのだと思う。他の新興宗教が大体まともに見えてしまうようになったのだから。
いや、全く実証的でない、印象論になってしまい申し訳ないが、まぁその程度の話だと思ってもらえれば十分である。
とにかく、怪異と云うのは筋の通らない、得体の知れない、科学発達以前の宗教的理屈に基づく、世の中や人間に対する安易な解釈なのだ、と云うのが私の最近の考えなのである。だから、私は批判的にしか怪異を取り扱えない。まさに、何でこんなことに興じているのだろう、と云うのが、私の、少年時代から変わらぬ怪異への接し方なのである。不快に思われる向きもあろう。しかし、その分客観的な根拠を積み重ねて行くつもりであるので、当ブログの言い分を、不快ではあっても間違っても無視するような挙には出ないでもらいたい、と思っているのである。私が与党政治に批判的であることも同様に、考証記事とは分けて扱っていただきたい。私は別に与党支持者を否定はしない。自分にとって好もしいのであるなら支持すれば良い。ただ、今のまま支持しておって好いのか、身内なればこそ襟を正させるべきではないのか、と思っているのである。新興宗教を信仰する人も、別にどうとも思わない。分からぬことだらけで不安な世の中を、そういうものにすがって安心出来るのならそれも良いではないか。もちろん、我々や社会におかしな影響を及ぼさないでいてくれる限りは。
話が脇に逸れたが、霊感商法から最近扱っている怪異談の現場についてつらつら考えたところを述べてみた。妄言多謝。