瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

米光秀雄・滝沢博・浅井徳正『多摩』(9)

・郷土叢書1『多摩』(4)
 昨日の続きで、滝沢博執筆の4章め「峠」の後半を見て置こう。
 137~146頁4行め、4節め「小  仏  峠」の冒頭、137頁2~5行め、

 小仏*1峠を歩いてみたいと、かねてから念願していた。甲州街道の難所のひとつであり、「重き/御関所」として重要な役割を果していた小仏の関所跡などもみたかったのである。
 十一月初旬、紅葉もいい頃であろうと、急に思いたって出掛けて行った。晴れたり曇ったりの/空模様だった。国鉄中央線の高尾駅に降り立ったのは十時頃。‥‥

とあり、これは末尾、146頁2~4行めに、

‥‥、私が小仏の道を歩いた晩秋の日から一カ月たらずの昭和四十三年/十二月、東京と富士吉田を結ぶ中央高速道路が開通し、再び日本の主要幹線として新しい歴史の/中に蘇生しようとしているのである。

とあって、滝沢氏が歩いた「十一月」が昭和43年(1968)と判明するが、7月6日付(6)に見た通り12月に開通したのは相模湖インターチェンジまでで、富士吉田市に隣接する南都留郡河口湖町(現・富士河口湖町)の河口湖インターチェンジまで開通したのは昭和44年(1969)3月17日である。
 写真は138頁右上「小 仏 関 跡箱根の関と並んで重き関所であった。」横長、142頁右上「峠 へ の 道(駒木野付近)/左側の石塔は馬の絵に似た文字を使った馬頭観音である」横長、143頁左上「中央高速道路小仏トンネル付近)」横長、144頁右上「峠の茶屋より八王子方面を望む」横長、145頁左上「峠より相模湖方面を望む晴れた日には富士山を望むことができる」横長。他に影印図版が140頁右上「当 時 の 小 仏 関(武蔵名勝図会より)」横長。
 146頁5行め~156頁3行め、3節め「鑓  水  峠」の冒頭、146頁6~9行め、

 正月下旬の晴れた暖かい日、私は鑓水*2峠を含めた、広大な多摩丘陵へ出掛けていった。中世の/一級国道ともいうべき、府中から町田へ続く鎌倉街道を歩いてみたかったし、四十万都市建設と/豪語する多摩ニュータウンをはじめ、住宅や工場建設で日一日と様相を変えていく多摩丘陵やそ/の中の村落が、破壊される前に、もう一度、この眼で見ておきたかったのである。

とあって、「八王子の市街」から「国道十六号線」で「御殿峠、むかしの杉山峠」を越え、「大芦」で柚木街道に入って「鑓水の部落」の中心部に出ている。147頁1~2行め「ここで車を乗り捨てて」とあってここからが徒歩である。
 147頁左上「峠口にある道標大山方面・神奈川方面への道標をもかねている   」縦長写真は慶応元年(1865)の道標で本文には銘文も記載している。
 148頁右上「辻 の 石 仏右手が峠への道、左手が子ノ神谷戸への道」横長写真は、本文16行めにも「道の左手が子ノ神谷戸*3で、右手が峠への道である。」と同様に説明されているが、ここは馬場喜信の云う「鑓水三差路」で、左は子ノ神谷戸ではなく巌耕地谷戸を遡って御殿峠に達する。
 151頁左上「国分寺付近の新田村国土地理院版地形図による)」横長影印図版で「ぼくがいこ」駅付近。地名は「田新戸榎」「田新中野」「田新倉戸」「戸榎南」「保久」「田新藤内」とあり「窪ヶ戀」の文字は新しい。他に縦組みで「堀分」「平兵衛新田」「國 分 寺」の文字が見える。1:50000地形図「青梅」である。
 152頁右上「絹  の  道八王子から横浜へ生糸を運んだシルク・ロードであった」横長写真は右に「絹の道」碑、左に殆ど平坦な鑓水峠への道を撮す。
 153頁左上「絹の道記念碑峠の頂上にあり、八王子織物発展の記念碑である」縦長写真、説明の2行めは左詰め。
 155頁左上「塩野倉之助記念碑八王子市犬目安養寺境内にあり、困民党指導者をたたえたものである   」縦長写真。
 この章では当然、道了堂に触れているのだが、それについては明日、この章の気になった点と共に取り上げることとしよう*4。(以下続稿)

*1:ルビ「こぼとけ」。

*2:ルビ「やりみず」。

*3:ルビ「ね・かみがやと」。

*4:7月15日追記7月15日付「道了堂(91)」に取り上げた。