瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

稲川淳二『稲川怪談』(6)

 こんな記事を上げているものだから(但し殆ど閲覧されていないから気にする必要はないかも知れぬのだが)再々断っているように、私は怪異の体験談とか実話怪談とか云うものが苦手である。体験したと云う主張を否定するつもりはない。当人が見たと云う以上、見たのだろう。しかし、私はそう云う体験をしたことがなく、見たこともない。つまり共有出来ないのである。そんなものを、客観的な判断の材料にする訳には行かない。だからこそ従来、良識ある大人は「怪力乱神を語らず」で、そのような主張にまともに取り合って来なかったのである*1
 いや、7月10日付「新聞解約の辯(4)」に述べたように、怪異なぞにまともに取り合っているような人々は、旧統一教会霊感商法との違いを説明しないといけないと思っている。かつ、良識ある大人は、そういう世界があることは認めつつも、原則として否定的に扱うべきだと思うのである。
 しかし私は、そんな噂があることも、一応は客観的事実として取り上げて置きたいのである。いや、むしろ、積極的に、怪異を信じてしまう人が付けてしまう尾鰭を削ぎ落とし、実際には何があったのかを検証しようと思っているのである。そうして、好い加減な与太話を広めようと云う輩が声高になることを抑えようと思っているのである。実際、怪談に興じている人々の取材は、怪談師・怪談作家とも、実に好い加減である。地元の歴史的経緯に詳しい人、例えば郷土史家が、しっかり否定しないといけないだろうと思っている。しかし地元の書店にそう云った怪談本が平積みになって、街興しの材料にしているようでは、図書館の書庫で埃を被っている郷土史家の仕事による是正効果は、どうも望めそうにない。
 こんなことを今更らしく断って置こうと思ったのは、稲川氏が「稲川淳二メモリアル「遺言」」と云う YouTube チャンネルを開設していて、多くの怪談動画をアップしていることに(今更ながらに)気付いたからである。まだ視聴する余裕を持てないでいるが、紙媒体と違って枚数制限がなく、番組や市販ビデオ・CDのように時間の制限もないため、かなり自由に、長々と語っているようである。そうすると、リイド文庫『稲川淳二のすご~く恐い話』シリーズのリライトと云う縛りのある『稲川怪談』よりも、この YouTube チャンネルの方が決定版と呼ぶに相応しいように思うのだが、どうなのだろう。――それはともかく、投稿されている怪談は万単位で視聴されており、熱く支持するコメントが多々寄せられている。もちろん複数回視聴している人もいるだろうから視聴数=視聴人数と云う訳ではないが、‥‥圧倒されそうだ。この人たちは、当ブログの指摘など歯牙にも掛けるまい。いや、そんなことは分かっている。稲川氏が現実に存在するものについて怪談を語っていて、そして、現実に、影響が出ているのだから、そこのところはきちんと押さえて置きたいと云うだけのことである。信者レベルのファンは当ブログなぞ相手にしなくても良いし、こちらも別に説得しようとは思っていない。しかし、事実に反することや、設定の矛盾など、出来れば確認して欲しいし、何なら引っ込めて欲しいと思っているだけなのである。
 この YouTube チャンネルにリンクされている「稲川淳二 オフィシャルサイト」に進むと、「阿部寛のホームページ」の100倍くらいの出来栄えで、稲川淳二の情報が詰め込まれている。これまでアクセスしたことがなかったので、情報量の多さに又しても圧倒されそうだが、「プロフィール」を見るに、「[デザイナーとしての経歴]」に7項挙がるうちの6項めに「平成3年    8月オープン NAO Bird's Bar デザイン」とあることに気付いた。「ピンクの女」の初出「私の店に来る、ピンクの女」が載る『稲川淳二のすご~く恐い話(PARTⅠ)』は平成6年(1994)7月に出ているらしい。そして昨日取り上げた「長い死体」もやはり平成6年(1994)夏の「稲川淳二の怪談ナイト」で語り始めたらしい。そうすると平成3年(1991)から平成6年の間に、これらの話を、この店で仕入れたことになる。ちなみに②『昭和・平成・令和 長編集』第二章【1】「消えた家族」の冒頭、56頁2行め「私の工房が茨城県にあるんですが」と云うのが「[デザイナーとしての経歴]」の5項め「平成3年    7月オープン 淳二・風・工房 デザイン」の「淳二・風・工房」であるようだ。(以下続稿)

*1:そう云えば、2016年1月23日付「子不語怪力亂神(2)」に稲川淳二の怪談についての印象を述べていた。